テオドール・クラック(1818~1882)とは、19世紀に活躍した作曲家・ピアニストであり、フランツ・リスト、テオドール・レシェティツキの陰に隠れがちだがカール・チェルニー門派の中で重要な役割を演じた一人である。
名字の表記ゆれが激しいが、Kullakというつづりの標準ドイツ語発音に従いここではクラックを基本とする。
概要
ポズナン大公国のクロトシンに生まれた。アルブレヒト・アクテに幼いころからピアノを教わった彼は、早くから音楽の方面で神童っぷりを発揮し、8歳の時点でアントニ・ヘンリク・ラジヴィウ公をはじめとした貴族のパトロンが存在し、プロイセン国王であるフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が称賛するというレベルであった。
こうした人々の援助が少し途絶えた時期もあり一度は医学の道も志したものの、ベルリンでまた新たなパトロンとなる友人を見つけ、音楽の道に邁進していった。そして24歳になるとウィーンに移り、ピアノをカール・チェルニーに、理論をオットー・ニコライとジーモン・ゼヒターから学び、フランツ・リストとアドルフ・フォン・ヘンゼルトから刺激を受けるなど充実した日々を過ごしたのである。
彼は幼いころから上流階級の人々と交わっていた経験から場慣れしており、こうした人々の子女の家庭教師として活躍した。さらに教育機関としてベルリン音楽院(のちのシュテルン音楽院)、意見の対立からそこから離れたのちは新音楽アカデミーの設立に携わるなど音楽教育者としてもその役割を演じたのだ。彼の弟子にはニコライ・ルビンシテイン、モーリッツ・モシュコフスキ、フランツ・クサヴァー・シャルヴェンカとその兄フィリップ、アルフレッド・グリュンフェルト、オットー・ベンディクス、ハンス・ビショッフ、ハインリッヒ・ホフマン、アレクサンドル・イリインスキー、サイラス・ガメイリアル・プラット、ユリウス・ロイプケ、エイミー・フェイ、ジェームス・クヴァストといった具合に、ピアニストとして成功をおさめたものも多くいた。
またモシュコフスキ経由でアメリカに渡ったヨーゼフ・ホフマンが孫弟子にいるなどヨーロッパの外側にも影響を持つこととなった(まー、アントン・ルビンシテインの弟子として有名な人物ではあるんだけど)。
なお彼は1882年に亡くなったが、彼の息子であるフランツも新音楽アカデミーやカール・ヴェーレ、アンリ・リトルフらから教育を受け、演奏家としての道は断念したものの父と同様に教育者として活躍をしていった。
チェルニーの弟子というとその後ドイツを席巻するリストの門派や、広範囲にわたって芽吹いたレシェティツキの門派が代表的だが、第3の存在として決して無視することができない存在、それこそがテオドール・クラックなのである。
関連動画
多くのピアノ曲を残したが昨今ようやく演奏されるようになってきた作曲家であり、ニコニコには動画はないようだ。
関連項目
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