レオニード・サバネーエフ(1881~1968)とは、音楽評論家、作曲家である。
概要
ロシアの上流階級であるサバネーエフ家の出自でレオニード・サバネーエフとユリア・デルサルの息子。なお、動物学者と魚類学者だったのは、父のレオニード・サバネーエフの方であり、彼が魚の本を書いたとたまに勘違いされるので注意である。なお、兄のボリス・サバネーエフはほぼ似たような生涯を送る。
当初は家で教育を受け、モスクワ大学で物理と数学を学ぶ。以後、数学や動物学で教授を務めるほど身を立てていったが、並行してニコライ・ズヴェーレフや、パーヴェル・シュレッツァー、セルゲイ・タネーエフや、ニコライ・リムスキー=コルサコフなどから音楽を学んでいった。
その彼の一番有名な事績が、アレクサンドル・スクリャービンの取り巻きになったことである。その辺の事績は、和訳もされている彼のスクリャービン伝に書かれているが、根本的な問題として、彼の書いてることにどの程度信頼を置けるのか全く未知数である、ということである。
正直、マリエッタ・シャギニャンなどの同時代のモスクワの音楽評論家たちからは、このレオニード・サバネーエフという人物は、スクリャービンを盲信する信者としては、かなり低級な追従者のような扱いを受けている。さらに、誰も現史料にあたれないのをいいことにスクリャービンを面白おかしく西欧に紹介し続けたフォービオン・バウアーズにすら、スクリャービンの伝記として両極端な駄本と一括された片方の書籍が、彼の伝記である。
加えて、このレオニード・サバネーエフは、セルゲイ・プロコフィエフのスキタイ組曲を、プログラムが急遽変わって実際に演奏されていない演奏会で、なぜか聴いたように投書して物笑いにされたことを後世プロコフィエフに自伝で書かれている。
さらに言えば、スクリャービンと対立的に彼の伝記で描かれている、ラフマニノフやメトネル側の史料では、この二人は取り巻きにはともかくスクリャービンそのものには割と親交を続けて居たっぽいことが見られる。というか、後世ラフマニノフ音楽院に就職したり、メトネルの評論を書いたりと、サバネーエフ自体も割とこの2人のことをどう思っていたのか謎が多い。
つまるところ、スクリャービン信者としてのサバネーエフは、結構信用できない存在として、永遠に擦られ続ける運命なのだろう(の割に日本でなぜか信頼できる文献として10年代に和訳されたわけだが)。
話を戻そう。音楽評論家として身を立てていき、ペテルブルク音楽院のタマーラ・クズネツォワと結婚したサバネーエフであったが、革命後もモスクワで、国立音楽研究所学術委員会の設立者兼委員長や、芸術アカデミーの音楽部局長に加えて、科学者団体の理事も務めるなど、相変わらず二足の草鞋を続けていた。
ところが、結局政治的な理由で、1926年に亡命する。パリで彼は、ラフマニノフ音楽院に務め、多数の新聞を発行した。1933年にニースに移住し、結局なんやかんやで80年以上の大往生を遂げた存在であった。
作曲家としては、超半音階を推し進めた人物であり、本来は「黙示録」という超巨大なカンタータを上映したそうにしていたが、未だなお実現はしていない。
関連項目
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