佐野重長(さの・しげなが ? ~ 1525?)とは、下野国の戦国武将である。佐野家10代当主。佐野重綱の子。兄弟に佐野季綱、佐野持綱。子に佐野盛綱がいる。養子に佐野重久(網戸重朝の子)。
佐野季綱(さの・すえつな 生没年不詳)とは、下野国の戦国武将である。佐野家10代当主。佐野重綱の子。弟に岩崎重長、佐野持綱。
10代当主がどちらかわからないのでここでは『佐野氏』と称しておく。
佐野氏を簡単に
佐野氏は藤原秀郷の末裔を称する一族。秀郷の6世孫は足利姓を名乗って足利成行と称している。清和源氏系足利氏とは異なるが、どちらも下野国足利(現在の栃木県足利市)を拠点としてその苗字を名乗っていた。
源平合戦の時代では、秀郷流足利氏は清和源氏足利氏と対抗して平氏側についたが、敗れて没落した。
成行の曾孫は佐野に土着して佐野姓を名乗った。これが佐野家初代・佐野基綱である。
時代が下るにつれて、佐野氏は奇しくもライバルであった足利氏に味方することとなった。
概要
先代に引き続き古河公方・足利成氏に属した。だが、享徳の乱の影響により勢力を衰退させてしまった。1455年に本拠地付近に越後上杉氏の援軍が下野天命・只木山に布陣し、佐野氏にとても緊張状態を強いられたが、成氏と共にこれを崩壊させることに成功した。(誰を指すかは不明)
これ以降主戦場は武蔵北部と上野東部に移り、本拠地周辺の大規模な戦闘は免れた。だが、約30年間も巻き起こしたこの戦乱は佐野氏の力を大きく削いだようで、1461年には岩松持国が鞍替えしたことを機に佐野氏も成氏から離れて幕府方へと鞍替えするほど力は安定せず、1463年には領内が戦火にまみれることとなり、佐野氏の勢力基盤の建て直しが図られることとなった。(1471年に両上杉氏の攻撃を受けて成氏から離反したとも。)
1500年の時点では佐野盛綱の名が出ているようなので遅くてもこれより少し前には家督を譲ったと見られる。(いつ譲ったのかは不明。)
1521年に下野清水城の城主となるが、自らは居城とせず、家臣に交代で守らせた。
ちなみに10代当主はwikipedia準拠として佐野重長を規定路線としているが、この清水城の一件では岩崎重長の名で登場している。佐野重長は左馬頭であり、岩崎重長は左馬助であり、別人だと思われるが、これを同一人物と見ることもある。尚、重長は初代清水城主・岩崎義基の12世孫にあたるので岩崎姓を名乗ったともする。だとするならば、季綱が佐野氏の正式な当主と見ることができる。そして、重長は清水城を献上して岩崎城に移ったという。献上した相手は季綱とも佐野秀綱ともいわれており、一定していない。(佐野季綱の別名に秀綱というのもあるが………。)
佐野氏おまけ
江戸期に佐野氏はなんと家系図を紛失してしまったそうで(現代でいう家系図を鼠に齧られて欠損してしまったようなもの)、生没年や続柄が混乱しているものが見られる。
播磨屋では季綱・盛綱父子は足利政氏に属したという。このことも踏まえ、重長・季綱は1430~1440年生まれだろうか?だとすると1521年の出来事だとかなりの高齢となってしまうが………。
関連項目
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