堀田興重(ほった おきしげ)とは、戦国時代末期から江戸時代初期の人物である。
信濃の国人(のち大名)・真田家に仕えたとされる。
通称は作兵衛。
概要
実は記録に残っている堀田作兵衛興重は、父子で二人いる。この時代、家督を継いだ男児が代々同じ通称を名乗ることは珍しくないが、諱まで同じなので大変ややこしい。
堀田興重(父)
生没年不明。通称は五兵衛とも。
真田昌幸の家臣として、真田信繁の世話係を務めたとされる。
また、娘は信繁に嫁ぎ、信繁の第一子である一女(すへ、於菊)を儲けた。興重の娘は、大谷吉継の娘・竹林院が嫁ぐまで、または竹林院が嫡男を出産するまでは、信繁の正室だったとも考えられている。
堀田興重(息子)
上述の堀田興重の嫡男。信繁に嫁いだ興重の娘は、妹に当たる。
父同様に、真田昌幸・信繁父子に仕えた。
主君が九度山へ蟄居後は、先述した信繁の長女を養女として引き取り上田に留まった。
後にこの信繁長女を、信濃長窪宿の郷士・石合重定(道定とも)に嫁がせている。
大坂の陣に先立って、信繁より信濃の昌幸旧臣宛てに参集要請がなされる。興重はこれに応えて、49人の同志を募って大坂城入りした。
この際、自身の妻子を先述した石合家へ預けたとも言われる。
大坂の陣では信繁の身辺警護を務め、戦死したといわれる。戦死時期については、冬の陣・夏の陣それぞれに説がある。
大坂城落城後、興重の妻女は真田信之によって上田で保護されたとも、娘が大坂にて幕府により斬首されたとも言われる。
嫡男・又兵衛は石合家に預けられており、後に幕府の知るところとなったが、特に咎めを受けることはなかったとされる。
関連項目
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