真田信之単語

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サナダノブユキ
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「真田信之」さなだ・のぶゆき 1566 1658)とは、気苦労を背負いこんで万全に処理する事に定評のある戦国時代チート一族真田氏の一人であり、祖真田幸隆真田昌幸真田信繁真田幸村)ら々しい活躍に定評のある一族中でも地味ながら、信濃上田そしての初代として、明治まで続く真田の基礎をつくりあげた真田最大の功労者。

名は「真田信幸」とも。

本多忠勝小松姫

93歳の長命を誇り、徳川家光嫌がらせもあって90歳まで現役のを勤め上げたチート爺でもあり、智謀がチート真田幸隆、全体的にチート真田昌幸戦闘面でチート真田信繁真田幸村)に対して、寿命チートである。

漫画殿といっしょ」では数少ないイケメンとして描かれた真田信幸が見れる。ようつべCMへ→exit

人質生活

信濃上田チート一族最強武将・真田昌幸長男に生まれる。真田幸村中の人真田信繁

※真田信之は別名三郎に対して、真田信繁次郎な為、実際の兄弟順は逆だったのではとの説もあるが、当時、長男名前を次男より下にすることで長男に降りかかる災厄から避ける意図によるものとされている。

すでに幼少時から迷惑事を背負わされて確実に処理する運命にあったらしく、真田昌幸武田信玄に臣従していた事から武田にて人質生活を送り、武田勝頼の嫡男で最後の甲斐武田武田信勝と同時に元し、武田信勝から一字をもらって「真田信幸」と名乗った。

武田滅亡後は上田に帰るも、の駆け引きにより、徳川家康の人質になったりした事があった。

その後、領地を巡る争いから徳川家康真田昌幸の間で起こった上田合戦の際に、よくある賢な評価をする人は、真田幸村を美化しすぎといわんばかりにの片腕として活躍し、その器量を本多忠勝徳川家康に認められ、本多忠勝小松姫徳川家康の養女として妻に娶り、徳川家康の縁者となった。

夫婦仲は良く、妻を亡くした際には「からが消えた」と大変嘆いたという。

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いに際しては、犬伏の別れにて石田三成率いる西軍につき、徳川家康の与力だった真田信之は東軍につき、真田嫌いに定評のある徳川秀忠と共に第二次上田合戦に参加して、と戦った。なおこの戦いでは、真田昌幸の前に関ヶ原の戦いに徳二代でありながら大遅刻するという失態を演じた事が、徳川秀忠真田嫌いにしたといわれている。

終戦後、敗軍の将となったに対して上田合戦で煮え湯を飲まされた事や後継者の徳川秀忠に重大な失点をつけた事から処断を決めていた徳川家康に対して、自らの戦功・領地そして命までをも投げ出して助命に走る姿が諸将の同情を引き、本多忠勝

お聞き入れくだされなければ、それがしが殿と一戦仕る

家康に啖呵を切った事から、は九度山への流罪となった。その後、自らが領を務めていた沼田の所領上田を加えた上田となり、空気を読んで名を「真田信之」と改めた。

その後も真田存続を第一に徳へ忠勤に励みながらも、良妻・小松姫の協力もあって、費ではなく、自費で九度山のへの支援も続けた。

真田家存続第一

幕府が二代徳川秀忠の代となると、真田嫌いに定評のある徳川秀忠からのいじめが始まる。

真田信之本人は病で参加できなった大坂の陣において、真田信繁豊臣方として大活躍した事から、真田信之は内通を疑われて取り潰されそうになったところを、ゆずりの老獪さで渡りきった。

その後、真田氏の祖の地である上田から、河川氾濫などにより痩せた土地だった信濃代へ左遷同様の転封となり、同じ外様大名の仙石忠政が上田入りすることとなった。

真田嫌いに定評のある徳川秀忠からの命もあって、やむなく祖の土地を離れる事とした真田信之だが、その際に、政に関する書類全てを焼き払い、上田城篭や植木を持ち去った。

政に関する資料の損失により、後任の仙石忠政は、真田ひいきの土地で苦労する事になる。

温厚で知られる真田信之が、いやがらせにも近い行為を行った事について、本多忠勝の実ので、徳川家康の養女として娶った小松姫ぎ先である真田が、同じ外様で格下の仙石祖の地を奪われる事に、幕府に対する立たしさを言の抵抗として行ったのではとする説がある。

そして真田信之は、良妻・小松姫の倹約により蓄えていた20万両にも及ぶ蓄財と共に代入りし、その後三代まで続く財力でを立て直して、明治維新まで続くの基礎を築くのだった。

徳川秀忠涙目

現役最高齢大名

幕府が徳川家光の代になっても真田のいじめは続き、真田信之は、すでに跡取りの真田信政が60歳を越えているのに

伊豆守(真田信之)は下の飾りである

として徳川家光から隠居させてもらえずにいた。

念願かなって隠居したものの、後を継いだ真田信政は高齢により2年後に死去し、真田信政の後継補の真田沼田真田信利との間で後継者争いが起こり、当時から中の失態を見逃さずに取り潰す幕府と駆け引きしながら、真田信利を独立させる事で真田が継ぐ事が決まったものの、この時真田はまだ2歳だった為、隠居していた真田信之が現役に再度復帰する事となった。

そして1658年、先に旅立っていた妻・小松姫の元へと旅立った。享年93歳。

賢弟愚兄に非ず

真田には、「吉光のお長持」という逸品が代々伝わっていた。

家老でさえ中を見たことがなく、常に4人の不寝番がつく程だったが、江戸幕府が倒れていじめっ子がいなくなった明治になって開封した際、とんでもないものが入っていた。

中身は家康から拝領した吉光短刀が納められいるとされていたが、その実は、石田三成からの書状等の、当時露見していたら確実に徳川家康に取り潰されていたであろう拠の書類の数々だった。

温和な人物で、時に「真田日本一の兵」の武名を残した真田信繁真田幸村)との偏った較から、賢とされることのある真田信之だが、危険な拠書類を焼却せず、不寝番をおいて秘蔵して後世に伝えたこの行為は、敵徳に対する反精神のあらわれと考えられ、真田信之もまたチート一族「真田」の血の者であったと言うことであると思われる。

さすが、名を守った最大の功労者はその中身も一味違っていた。

その他「真田信之」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。exit

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だいたいあってる第一次&第二次上田合戦。小松さんパネェっす。

▼「殿といっしょ」でに苦労をかけられる・真田信之の替え歌

▼「信長の野望 革新PK」地方別武将ランキング中部編に総合14位で登場。

真田での「信長の野望 革新プレイ動画

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける真田信之(真田信幸)の力一覧。

軍事 内政
群雄伝(S1) 戦闘 政治 魅力 野望
武将風雲録(S2) 戦闘 69 政治 77 魅力 69 野望 50 教養 72
覇王 采配 83 戦闘 68 智謀 37 政治 81 野望 47
戦才 150(A) 智才 136(B) 政才 164(A) 魅力 86 野望 64
将星 戦闘 74 智謀 81 政治 86
烈風 采配 78 戦闘 62 智謀 72 政治 83
世記 采配 60 智謀 67 政治 71 野望 43
統率 59 知略 68 政治 74
下創世 統率 63 知略 62 政治 74 教養 65
革新 統率 76 武勇 69 知略 70 政治 86

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真田信之

225 ななしのよっしん
2018/09/22(土) 19:34:26 ID: ogRdoeX+fj
代は越前平家や左衛門酒井という幕府の譜代中の譜代が入った地
北信・上越地域の要地として川中島の戦いでも高坂昌信が守った要衝
更に言えば代ではないが、領地の大部分が内包される中島時代に福島正則が農地開発に尽力した逸話も残っている
ココを左遷地だと思うのは流石におかしいし、荒れ地も誇されすぎだと思う
論、本貫地を離れることになった信之が名誉に思ったかは別だけどさ
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226 ななしのよっしん
2018/09/28(金) 16:49:51 ID: xqGbRXAbzZ
長持も、武田時代からの機密書類群の中に三成や西軍からの書状もあっただけでそれがメインじゃないし
別に反とかじゃなくて、敵味方に別れたや友誼のあった三成への
未練というか割りきれない感情が入れさせたんじゃないかなあ

まだ不安定な時期なら残しておく意味もあっただろうけど
信之が死ぬ頃にはもう何の役にも立たないし、三成からの割としょうもない手紙まで残してるし
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227 ななしのよっしん
2018/11/21(水) 20:53:00 ID: 7DrgnrAO75
真田とほぼ同格だった矢沢の取り込みを遂したり、親父不在時に対北条担当で挑発行ったりと、相当な策略でもあったみたいだ
それでいて敵以外の相手には人情だったりで
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228 ななしのよっしん
2018/12/28(金) 07:44:17 ID: 1GKDTf3LOo
「徳からいじめ」とかクソみたいな事書いてあるけど、
いじめどころか政宗と並んで最も幕府に優遇された外様なんじゃねーかまである
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229 ななしのよっしん
2019/01/12(土) 10:42:33 ID: 6c8tDA3AjN
>>228
だからこそ幕府も準一門・譜代の大名を引退させたくなかったんだろうね。次代は本多系じゃないし。
お伽衆にすればって考えも有るけど、北陸から関東への程にある、大軍での合戦しやすい中島の領は戦巧者で信頼できる者のままにしとくほうが利有るし。
まだまだ幕政が安定しているって思っていなかったんだろうね。政宗優遇とか見ても。
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230 ななしのよっしん
2020/02/21(金) 21:13:23 ID: T6wz/UVzrG
優遇されたと言うか怖かったのでは?
絶対に敵に回したくないと。
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231 ななしのよっしん
2020/04/06(月) 07:35:23 ID: Y4LidJASYo
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232 ななしのよっしん
2020/08/30(日) 11:23:11 ID: /XgVyHkvy0
>>219
>>222
秀忠的にはかつて味噌級のトラウマだった武田取り立て家康に倣って真田取り立ててたけど取り巻き(臣)たちが忖度(勘違い)してた説。
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233 ななしのよっしん
2023/12/14(木) 14:53:46 ID: iCRTrhGT/4
政治家としての側面ばかり言われるが関が原以前の武功も相当な物よ。
初陣以降沼田300500騎兵で赴任後独自判断でで北条上杉とのをかき回し続け双方の大規模侵攻を未然に防ぎ続けた。
そして何よりも手子丸奪還戦の手際は異常北条5000の侵攻に対し信之はの命を受けかき集めた騎兵800で、
北条を防衛する味方を援護に向かうも、防衛部隊は手子丸にて全滅
この報を受けた信之は独断で騎兵800のままで手子丸を押さえた北条5000に対し奪還戦を決断。
わずかな損で見事敵5000を敗走せしめている。
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234 ななしのよっしん
2024/03/29(金) 23:58:31 ID: iCRTrhGT/4
最近判明した話
信之の徳における直属の上井伊直政だった模様。
直政は武勇のみならず外交、調略、交渉を得意としており
信之を徳に引き込んだのも直政の進言による。
の助命も信之がまず駆け込んだのは義の忠勝ではなく、
当時病床にて関ヶ原の信賞必罰案を作成していた直政のもととのこと。
この時の直政の忠勝、家康に対する説得の台詞が「信之に恩を売っておけば必ず徳の役に立つ」

ということはこの時点まで信之は徳に対し忠を誓っておらず手を抜いていた…?でそのことを直政に看破されていた…?
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