塩冶高貞単語

エンヤタカサダ
  • 0
  • 0pt
掲示板へ

塩冶高貞(?~1341)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
冶判官といえば通じる人もいるのではないだろうか。

概要

治承・寿永の乱で活躍した佐々木兄弟のさらに下の佐々木義清の子孫である佐々木隠岐氏の庶流で、鎌倉時代に嫡流が隠岐守護を務めたのに対し、出雲守護を代々務めたらしい。

1333年後醍醐天皇が隠岐を脱出すると馳せ参じ、6月には名和長年らとともに供奉して入建武政権下では雑訴決断所の寄人を務め、また幕府方について落した隠岐氏の後を継ぎ、隠岐守護にも任じられている。

ところが足利尊氏建武政権から離反すると、箱根ノ下の戦いで新田義貞軍を寝返り、敗走のきっかけを作る。その後もヶ崎攻囲戦を会場から支援するなど北の武将として活躍し、建武政権以来の隠岐・出雲守護も維持していた。

ところが、である。1341年京都を出奔し、謀反の疑いありと山名時氏桃井直常らの追討を受け自害する最期を遂げる。この突然の事態から、『太平記』には塩冶高貞が後醍醐天皇から賜った美しい妻に、横慕した高師直による讒言があったとされるエピソードがあり、このことは歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で極めて有名になったのである。ただしこれはあくまでも文学的表現に過ぎず、どうもこの件に関しては師直どころか高一族は全くかかわっていないようだ。

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 0
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

無自覚な荒らし (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: ゲスト
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

塩冶高貞

まだ掲示板に書き込みがありません…以下のようなことを書き込んでもらえると嬉しいでーす!

  • 記事を編集した人の応援(応援されると喜びます)
  • 記事に追加して欲しい動画・商品・記述についての情報提供(具体的だと嬉しいです)
  • 塩冶高貞についての雑談(ダラダラとゆるい感じで)

書き込みを行うには、ニコニコのアカウントが必要です!


スマホで作られた新規記事

こちらの記事に加筆・修正してみませんか?

画面遷移確認のための記事 健康優良児 あらそう