新田義貞(1301~1338)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
鎌倉を攻略し、建武政権で重用された義国流清和源氏の末裔の一人。とはいえ、ちゃんと調べられていった結果、遠い親戚の足利尊氏の配下だったともいわれるほど、裸一貫の貧乏御家人だったことが明らかにされつつある。
ここまでのあらすじ
新田氏とは義国流清和源氏のうち在京活動を目立って行った足利氏に対して、平賀氏の分流や藤姓足利氏とともに荘園開発や経営を進めていたとされる。しかし彼らもまた独自の在京活動を行っており、鎌倉時代においてもかつての軍事貴族の伝統を引き継いだ京武者としての活動が見られた。
さてそんな新田氏であるが、初代新田義重は治承・寿永の乱で下野の有力者として平家にも源頼朝にも与さず様子見に徹してしまい、庶家の山名氏や里見氏が早くから源頼朝旗下について門葉とされたのに対し、情勢が固まり頼朝のもとについて以降はかつての栄光は遠いものとなってしまったようだ。さらに義重は頼朝の側室を求める動きを北条政子への配慮から断ってしまい、頼朝の信頼を勝ち得ることはついにできなかった
さらに、新田義重のひ孫である新田政義に至っては無断で出家してしまって、二月騒動までは世良田頼氏、岩松経国が「半分惣領」として新田氏を率いることになるなど、世良田氏や岩松氏といった本宗家を共同で運営していた庶家の権力伸長が激しくなっていった。
その結果なのか元からなのかは現在も議論されているが、弱体な新田氏は足利氏に包摂された存在であったというのが現在の有力な見解となっている。
新田義貞の登場
新田義貞が初めに登場するのは、火災によって焼け落ちてしまった氏寺、長楽寺の再興に関する書状である。これは主に世良田氏が紀氏のネットワークを利用して行っていたが、庶家、特に岩松氏の権力伸長が激しかったとはいえ、本宗家の座に戻れた彼がこれを能動的に行わない理由はなかった。というかはっきり言って無位無官の彼がやることはこれくらいしかなかったのである。ちなみにこの時鎌倉が出した安堵状では「新田貞義」と名前まで間違えられており、新田などほとんどどうでもいい扱いをされていたことがはっきりした証拠として残っていたりする。
そこへふってわいたのが元弘の乱である。護良親王が全国に片っ端から出兵を求める令旨をばらまいたため、新田義貞もそれを受け取ったのである。『太平記』では北条高時に派遣されて税の徴収にやって来た代官に狼藉を働き、その結果突発的な反乱を起こしたことになっている。
しかし実際は足利一門の足利千寿王(足利義詮)を旗頭として足利一門として挙兵した説、挙兵自体は新田氏の独断で行ったけど足利氏が情勢の変化を悟り六波羅探題を攻撃したため、足利千寿王を核とした岩松氏や世良田氏率いる部隊、それに情勢の変化を悟った結城氏や小山氏、三浦氏や千葉氏らがいつの間にか加わりカオスな状態になったよ説、など統一的な見解は未だ見られない。
しかし理由はどうであれ新田義貞は軍事指揮官として非常に活躍し、北条高時以下鎌倉幕府の中心メンバーを自害に追い込み、討幕を成し遂げたのは彼だった。にもかかわらず足利千寿王の方が優位にあり、恩賞を得るには彼に従った方がいいと参陣した武士たちは次第に悟りはじめ、細川和氏、細川頼春、細川師氏の下向もあって、新田一門と一触即発の状態に陥ったのである。無位無官であり中央とのパイプも何ら持たなかった新田義貞は鎌倉への残留をあきらめ、京都へと向かうことになる。
無位無官だったはずの新田義貞は京へたどり着くと、足利尊氏に肩を並べるまでにはいかなかったものの、建武政権で武者所を新田一門が占め、さらに一門で上野・越後・播磨という数カ国の国司・守護になるなど大躍進を遂げたのである。弟である脇屋義助も駿河守になり[1]、足利派の岩松経家の飛騨守護就任はともかくとして、足利一門に包摂されていたはずの新田一門の躍進に足利尊氏と軋轢が起きない理由はなかった。
足利氏と新田氏の対立、その結末…
足利尊氏は護良親王の失脚もあってますます建武政権で権力を上昇させていった。そんなときに起きたのが北条時行による中先代の乱である。尊氏はこれを攻略後、鎌倉にとどまり戦後処理を行い始めた。はじめは尊氏の功績を評価していた後醍醐天皇であったが、足利尊氏、足利直義兄弟は新田義貞をスケープゴートにしつつも、露骨に建武政権からの離反の様子を見せ始めたのである。
こうして尊良親王率いる討伐軍が整備され、新田義貞ら新田一門もこれに加わった(山名時氏や岩松頼宥らは足利氏側に加わっていたが)。東海道軍(新田義貞、脇屋義助、堀口貞満ら)、東山道軍(江田行義、大館氏義ら)どちらにも新田一門が加わっており、矢作川の戦いで高師泰、足利直義率いる軍勢を退却させたことで幸先の良いスタートを切ったのである。しかし足利尊氏本隊が攻めあがってきた箱根・竹ノ下の戦いで敗戦。そのまま一気に上洛までされてしまう。
北畠顕家の一度目の上洛による強襲で足利尊氏が九州落ちし、何とかこれをしのいだが、播磨の赤松円心を攻め落とせないままいたずらに時が過ぎてしまう。その間尊氏は多々良浜の戦いで再起し、一気に再上洛。湊川の戦いで楠木正成を失ったのをはじめ、再び京都まで攻めあがられ三木一草も全員死んでしまった。この結果後醍醐天皇は足利尊氏と和睦するが、新田一門はそれに不満を抱く派閥と後醍醐天皇に従う派閥に分かれてしまう。新田義貞は前者の代表として尊良親王、そして天皇宣下を受けた恒良親王とともに越前に向かった。
こうして新田義貞らタカ派新田一門は金ヶ崎城に入り、北国経営を始める。しかしすぐに斯波高経、高師泰ら追討軍が派遣され、攻囲戦が開始された。そして新田義貞が援軍を求め城を出ている間に落城し、義貞長男・新田義顕、尊良親王は自害、恒良親王は捕らえられてしまったのであった。
新田義貞は杣山城に入り再起を図り、斯波高経の黒丸城を落とすが、北畠顕家との合流に失敗。孤立した義貞は藤島の戦いであっけない戦死を遂げてしまった。義貞のそのあっけない戦死は『太平記』で勾当内侍との関係性をやたらドラマチックに描かれていることに表れているともいわれている。
その後彼の次男・新田義興、三男・新田義宗が宗良親王を奉じるも順次討伐されていき、新田氏嫡流は歴史の裏へ消えていくこととなった。
そして後世
時は下って明治のこと。王政復古の大号令により再び天皇が国の中心となったことで、南朝正統論の観点では忠臣ということになる義貞もまた顕彰されることとなる。明治15年、楠木正成に続く形で正一位の位を贈られれ、日本の位階上最高位に列せられたのである。足利尊氏は死の直後に従一位を贈られてから変化していないので、死後500年を経てついに立場が逆転した形となる。
まあ功績が評価されたというよりは、天皇の忠臣として政府の宣伝に利用されただけなので、やってることは相変わらずとも言えるのだが、生前ろくなことのない人生だったのだから死んだ後ぐらい美味しい思いをしてもいいんじゃないだろうか。義貞乙。
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関連項目
脚注
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