酒井忠篤(1853~1915)とは、幕末に活躍した大名である。
概要
徳川四天王の一人・酒井忠次の衣鉢を継ぐ、出羽庄内藩主。庄内藩自体が佐幕派としては、いろいろな意味で会津藩の陰に隠れてしまっており、奥羽越列藩同盟のもう一人の救援対象だったことがやや忘れられた感のある人。左衛門尉。幼名・繁之丞。
藩主・酒井忠発の4男であり、母は萩原紋蔵の娘・萩原五百子。文久2年(1862年)に兄・酒井忠寛の早世で、わずか10歳にして藩主となる。
文久3年(1863年)には江戸市中取締を命じられ、旧藩士・清河八郎の発案で結成された浪士組が母体となった新徴組を指揮下に置き、藩士とともに江戸市中警護を担当させた。
慶応3年(1867年)に三田にある薩摩藩上屋敷を拠点とした、不逞浪士の討伐を上山藩と共に行い、これが幕末の一つのターニングポイントとなってしまう。
こうした功績で慶応4年(1868年)に寒河江などで年貢徴収権を与えられた庄内藩であったが、戊辰戦争が進行すると、前年の薩摩藩邸襲撃などでターゲットにされてしまい、この年貢徴収権を天領からの徴発という攻撃の口実にされてしまう。また父・酒井忠発が徳川家救済に動いていたこともあり、庄内藩は会津藩とともに最重要攻撃対象とされてしまったのであった。
かくして奥羽越列藩同盟の協力もあり、会津藩と共に新政府軍と開戦する。二番大隊隊長・酒井玄蕃の活躍もあって、秋田から越後への転戦で圧倒的な強さを見せるも、父・酒井忠発の意思で降伏することとなった。
結局家督は弟・酒井忠宝が継ぐことになり、酒井忠篤は西郷隆盛の知遇を得て多くのアドバイスを受けたとも。明治13年(1880年)に家督を再相続し、伯爵位を得る。そのまま鶴岡で没した。
関連項目
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