ラッシャー木村とは、金網の鬼であり、マイクの鬼である。コノヤロー
本名は木村政雄と言い、北海道出身である。元来よりプロレスラー志願であり、角界入りしたのもプロレスラーになるにあたって体力つけるためであった。力士としては幕下20枚目まで登った後に廃業、同じ角界出身の豊登との縁で東京プロレスの旗揚げに参画するも、1年後に崩壊。その後は国際プロレスへ活躍の場を移し、アメリカで武者修行の後に日本で初めての金網デスマッチを開催した。金網デスマッチでは無敵を誇り、いつしか彼を「金網の鬼」と呼ぶようになった。コノヤロー
1981年に国際プロレスが解散すると、活躍の場を新日本プロレスに再度移して国際プロレス時代の仲間であるアニマル浜口らとアントニオ猪木との抗争を繰り広げた。その後内紛を経てUWFへ移籍したが、そこでもトラブルによって離脱し、全日本プロレスへ移籍した。コノヤロー
国際プロレス時代の仲間と共に正規軍との抗争を繰り広げた。この頃より木村のマイクパフォーマンスは徐々に注目され始めてきた。新日本時代にも所謂「こんばんわ事件」で注目を集め始めていたが、ジャイアント馬場との義兄弟宣言(「アニキ!」)以降はベビー転向と共に本格的にマイクパフォーマンスを繰り広げ、その犠牲ネタになったレスラーは数知れずであった。それは全日本プロレスのモットーであった「明るく、楽しく、そして激しく」の「明るく、楽しく」を具現化したものであった。コノヤロー
馬場の死後、全日本プロレスを巡る内紛から三沢が離脱し、NOAHを立ち上げるとそれに同調した。還暦を迎えた後も、現役で活躍し続けたが体力の衰えはぬぐい切れず、2003年以降は長期離脱。ビデオレターで引退を表明した。
2010年、肺炎で死去。享年68歳であった。前述したビデオレターの様子から、脳卒中を患ったのではないかと言われていたが、実際に患っており、車いす生活であったようだ。
今頃は先に旅立ったジャイアント馬場らと共に天国マッチ王座をやりつつ、あの世をネタにマイクパフォーマンスで閻魔大王をはじめとしたあの世の多くの人々に笑いと感動を与えている事であろう。
ラッシャー木村と言えばマイク、マイクと言えばラッシャー木村と言う程に彼にとってはマイクは切っても切れないものであった。古今東西、マイクパフォーマンスはプロレスの醍醐味であるが、彼のマイクパフォーマンスは特にユーモラスかつ機転がきいたものであり、「おい」の一言で観客席を沸かせられる程の希有のキャラクター性の持ち主である。プロレスを知らない者でもその語り口としゃがれた声だけでラッシャー木村と分かるほどである。コノヤロー
国際プロレス時代よりマイクパフォーマンスをしていたが、彼の印象を決定づけたのは1981年の田園コロシアムにおける「こんばんわ」発言である。どこぞのコピペを借りるならば「プロレスってのはもっと殺伐としてるべきなんだよ。リングで向かい合ったレスラーといつ流血してもおかしくない、刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか」な雰囲気が大勢を占めていた観衆を拍子抜けさせ、爆笑させた発言である。そして決定打となったジャイアント馬場に対する「アニキ」発言。以降は全日本プロレスには欠かせないものとなった。そのインパクトは大きく、たけし軍団のラッシャー板前の命名の由来ともなり、また志村けんも自身の番組「志村けんのだいじょうぶだぁ」でクワマンが木村に扮したほどである。コノヤロー
一見ぶっきらぼうそうな言葉遣いでありながら最後は「~なさい」と言う風に丁寧な喋りでしめる傾向があった。色々なキャラクターのいるレスラーとの絡みに対して、即座に対応出来る頭の回転の良さが身上であり、多数のレスラーが犠牲ネタになった。
しかし、これほどまでに盛り上がっていたマイクパフォーマンスが他のレスラーからクレームを受けなかったのは他ならぬラッシャー木村自身の実直かつ温厚な性格であったからこそなし得た賜物であった。リング上では熱い人物であったが、リングを降りれば物静かで後輩と共に酒を飲みに行く優しい人物であった。酒を飲んでも静かで、また愚痴や他人の悪口を言わないと言う具合に誠実な人柄が垣間見える。実際どのレスラーもラッシャー木村を悪くいう人間はいなかったエピソードからもそれがうかがえる。
なお、還暦を迎えた際に赤いガウンと共に赤いマイクが用意された。
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最終更新:2024/11/08(金) 01:00
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