| 横浜DeNAベイスターズ #82 二軍野手育成コーディネーター兼野手コーチ |
|
|---|---|
| 万永貴司 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 兵庫県姫路市 |
| 生年月日 | 1972年7月7日 |
| 身長 体重 |
170cm 77kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 内野手 |
| プロ入り | 1993年 ドラフト6位 |
| 引退 | 2006年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
卒業後、中山製鋼所に就職。1992年には都市対抗野球大会に日本生命の補強選手として出場し優勝に貢献。1993年には自チームである中山製鋼所の都市対抗出場に貢献し、本大会では本塁打も放っている。
1993年ドラフト会議にて、横浜ベイスターズからドラフト6位で指名され入団。背番号は前年まで石井琢朗が使用していた0になった。
1994年、15試合に出場。9月末には阪神タイガースの中西清起から延長13回にサヨナラタイムリーヒットを記録している。
1995年、中日ドラゴンズのエースであった今中慎二からプロ入り初本塁打を放ったものの、次の打席で肉離れを発症し翌日二軍降格。スタメン定着のチャンスを逃してしまった。
1997年は脱税事件に関与してしまい1ヶ月の出場停止処分が下された。
1998年、一軍に定着。7月にはサードのレギュラーであった進藤達哉が故障により離脱した際に代役として起用され、月間打率.340を記録するなど打ちまくり、進藤不在の穴を補って余りある活躍を見せた。進藤復帰後は再び控えに回ったものの、ユーテリティープレイヤーとして存在感を発揮。チームの38年ぶりの優勝・日本一に貢献した。47試合に出場し、打率.267、1本塁打、5打点を記録した。
2001年、守備を重視する森祇晶新監督の構想にマッチし、主に守備固めとして出場機会を増やす。この年キャリアハイの72試合に出場すると、翌2002年には70試合に出場。
2003年は打撃が好調であり、少ない出場機会ながらも打率.342、2本塁打をマーク。
2006年、シーズンをほぼ二軍で過ごし10月に現役引退を決意。ホーム最終戦の広島東洋カープ戦が引退試合となり、2番セカンドでスタメン出場。初回の守りに涙を流しながら守備に付き、最終打席は粘った末に空振り三振に終わった。
引退後は横浜に残り、コーチや二軍監督を務めた他、2010年から2012年にかけてはスカウトとして活動。宮崎敏郎や桑原将志らを担当した。
現在は、野手育成コーディネーター兼チーフ野手コーチを務めている。
代打・代走・守備固めなど様々な役割をこなし、マシンガン打線を影から支えたスーパーサブ。勝負強い打撃も魅力であった。
「ハマのギャルが みんな見つめてるぞ」というフレーズを含む応援歌でも有名。
| 通算:13年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 518 | 553 | 487 | 87 | 115 | 5 | 35 | 35 | 30 | 0 | 31 | 5 | 101 | 9 | .236 | .289 |
| チーム | ID | ピコカキコ |
|---|---|---|
| 横浜 | 10327 |
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最終更新:2025/12/16(火) 08:00
最終更新:2025/12/16(火) 08:00
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