| OB | |
|---|---|
| 三浦方義 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 青森県三戸郡 |
| 生年月日 | 1933年8月23日 |
| 身長 体重 |
172cm 77kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1952年 |
| 引退 | 1962年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
五戸高等学校に進学。エースとして活躍したが、甲子園大会には手が届かなかった。
その後入団テストに合格し、高校卒業後、1952年に読売ジャイアンツに入団。
ただ、選手層の厚い巨人ではほとんど登板機会を得ることができず、1955年シーズン終了後、自由契約となった。
1956年、大映スターズに入団。ここで、エースでありながらコーチも兼任していた林義一に投球フォームの欠点を指摘され、これが大きな転機となる。先発投手陣の一角に食い込むと、先発登板のみならずリリーフでの登板でもこなすなど層の薄い投手陣の中で孤軍奮闘し、61試合に登板。29勝14敗、防御率1.77を記録し、チーム勝利数の実に半分を一人で稼ぎ、最多勝のタイトルを獲得。また、オールスターゲームにも初出場している。
1957年、同年も先発投手として起用されて12勝を挙げたが、パ・リーグワーストの21敗、失点108、自責点88を記録し、チームは最下位に沈んだ。翌年開幕前に、チームは毎日オリオンズと合併して、毎日大映オリオンズ所属となった。
チーム力の増強した大毎でも先発投手として起用された。1958年は11勝8敗、防御率2.78という成績を残した。
しかし、翌1959年に34試合に登板して3勝に終わると、その後は故障もあり低迷。
引退後も大毎に残り、投手コーチやスカウトを務めた。コーチ時代には成田文男・木樽正明・八木沢荘六らエース格となる投手たちを育成し、スカウト時代には弘田澄男を獲得した。
高い制球力を武器にコースいっぱいにスライダーやカーブなどの変化球を投げ込む投球で活躍した右腕。
藤本英雄が完全試合を達成した試合を生で観戦して以降、藤本が憧れの選手となったという。
| 通算:11年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 222 | 27 | 4 | 56 | 53 | --- | --- | .514 | 895.2 | 255 | 475 | 347 | 283 | 2.84 |
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最終更新:2025/12/06(土) 15:00
最終更新:2025/12/06(土) 14:00
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