弘田澄男(ひろた すみお)とは、元プロ野球選手のことである。
| OB | |
|---|---|
| 弘田澄男 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | 日本 |
| 出身地 | 高知県宿毛市 |
| 生年月日 | 1949年5月13日 |
| 身長 体重 |
163cm 67kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 外野手 |
| プロ入り | 1971年ドラフト3位 |
| 引退 | 1988年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
高校は高知高等学校に進学。春の選抜甲子園大会に2度出場、1967年春には三塁手として活躍し、チームの準優勝に貢献した。
卒業後、四国銀行に就職。ここでは4年在籍し、補強選手として4年連続で都市対抗野球大会に出場、1971年には補強先の丸善石油の準優勝に貢献した。
1971年のドラフト会議でロッテオリオンズから3位指名を受け入団。身長163cmは指名当時最も身長の低い選手であった。
1972年、内・外野のユーティリティプレイヤーとして71試合に出場し、打率.283、18盗塁とルーキーとしては十分な成績を残す。
1973年、この年監督に就任した金田正一により、キャンプはシゴキのような猛練習の日々。主力の選手が次々に音を上げ、食欲すらわかず夕食を半分近くを残す状態の中、弘田はぺろりと平らげた。この様子を見た金田は「食いっぷりが良い」と評価するようになる。金田は現役時代より食事による体作りや疲労回復の重要性を説いていたため、この点が気に入られたと思われる。
この年センターのレギュラーとして固定されると、7月にはサイクルヒットを記録するなどブレーク、打率.295、13本塁打、50打点、22盗塁の成績を残し、金田の期待に結果で応えてみせた。また、守備面ではダイヤモンドグラブ賞を受賞、この年から1977年まで5年連続で同賞を受賞している。
1974年は打率.295、9本塁打、60打点、26盗塁で打線の口火を切り、リーグ優勝に貢献。日本シリーズでは日本一を決めるタイムリーなど重要な場面でよく打ち、日本シリーズMVPにも選出された。
1975年、リーグ最多の148安打を放ち、打率は自身初の3割超えとなる.301をマークし初のベストナインにも選出された。
1984年、トレードで阪神タイガースへ移籍。2番打者として起用され、打率はキャリアハイとなる.313をマークした。
1985年、北村照文や吉竹春樹らの台頭もあり控えにまわったものの、繋ぎの打撃やバントなど要所で渋い活躍を見せリーグ制覇に貢献。日本シリーズでもチャンスメーカーとして活躍し、日本一にも貢献した。
以降は出場機会を減らし、1988年には形式上では選手兼任コーチであったものの、一度も試合に出場することなく同年限りで現役を引退した。
引退後は阪神、横浜、巨人などでコーチを務め、2006年には侍ジャパンの外野守備走塁コーチとしてWBC制覇にも貢献した。
その後は横浜の編成部長や高知ファイティングドッグスの監督なども務めた。
2019年からは母校高知高等学校の土日にコーチを務めている。
闘志むき出しのプレーで攻守に渡り活躍したリードオフマン。プロ野球歴代でも屈指の低身長ながら小さな体を目一杯使う自称『イケイケ打法』は、パンチ力もあり二桁本塁打も二度記録している。
バットコントロールの上手さは引退後も衰えず、コーチ時代は名ノッカーとして名を知られ、様々な球団で重宝された。
銀行出身ということもあり、お札を数える「札勘」を特技としている。そろばんも得意だった。
| 通算:16年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1592 | 6056 | 5466 | 716 | 1506 | 76 | 487 | 294 | 176 | 37 | 328 | 45 | 378 | 75 | .276 | .320 |
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最終更新:2025/12/06(土) 08:00
最終更新:2025/12/06(土) 08:00
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