佐野仙好(さの のりよし)とは、元プロ野球選手である。
| OB | |
|---|---|
| 佐野仙好 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 群馬県高崎市 |
| 生年月日 | 1951年8月27日 |
| 身長 体重 |
174cm 78kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 外野手、内野手 |
| プロ入り | 1973年 ドラフト1位 |
| 引退 | 1989年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
前橋工業高等学校へ進学。2年時に夏の甲子園大会に出場を果たしたが、初戦で完封負けを喫している。
卒業後、中央大学へ進学。同期には藤波行雄がいた。1年時からレギュラーとして活躍し、1年秋のリーグ戦で首位打者を獲得。在学4年間でベストナインを2度受賞、3度のリーグ優勝、4年時には全日本大学野球選手権大会優勝を経験。大学日本代表にも選出された。
1973年ドラフト会議にて、ドラフト1位で阪神タイガースへ入団。同期には掛布雅之がいた。
初年度から一軍に定着し、掛布とレギュラーを争いながら61試合に出場。1975年は82試合に出場。
1976年、掛布がサードのレギュラーに定着し、佐野はレフトに回ることになった。
1977年、開幕からレフトのレギュラーとして活躍したが、4月末の川崎球場での大洋ホエールズ戦で、フェンス際の打球をキャッチした際、そのままの勢いでフェンスに激突。痙攣しながら白目を剥き、口からは血の混じった泡を吹いて失神するという大事故が発生。即座に救急搬送され、診断の結果は頭蓋骨骨折の重傷であった。命が危ぶまれる大怪我だったが、順調に回復し、7月には戦線に復帰。最終的には、打率.305、8本塁打、21打点をマークした。
1979年、藤田平の故障により主にファーストとして起用され、初めて規定打席に到達。打率.300、10本塁打、52打点をマーク。同年から1987年まで9年連続で二桁本塁打を記録した。
1981年、勝利打点15を挙げ、初の個人タイトルとなる最多勝利打点のタイトルを獲得。
1985年、ランディー・バース、掛布雅之、岡田彰布の後ろを打つ6番打者としてしぶとい打撃で活躍。優勝を決めたヤクルトスワローズ戦では同点の犠牲フライを記録している。
1988年頃から徐々に出場機会が減少。1989年、19試合の出場に終わり、同年限りで現役を引退。
堅実かつ勝負強く、時に一発を放つこともあるパンチ力も魅力であったクラッチヒッター。ガッツあふれるプレーも持ち味としていた。
1977年にフェンスに激突し大怪我を負ったが、このプレーがきっかけで球場のフェンスにラバーが設置された他、【選手の生命に関わる負傷が生じた場合は、審判員はタイムを宣告できる】というルールが追加された[1]。
ライバルは4歳年下の同期掛布雅之であり、互いに競争しながら成長できる良好な関係であった。引退に際し、佐野は「ここまでやれたのは掛布のおかげ。あいつに負けたくないという気持ちがあったから」とコメントを残している。
| 通算:16年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1549 | 5286 | 4826 | 490 | 1316 | 144 | 564 | 45 | 22 | 53 | 366 | 19 | 452 | 124 | .273 | .323 |
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最終更新:2025/12/05(金) 20:00
最終更新:2025/12/05(金) 19:00
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