原田督三(はらだ とくぞう)とは、元プロ野球選手である。故人。
OB | |
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原田督三 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県名古屋市 |
生年月日 | 1919年8月28日 |
没年月日 | 1976年3月30日 |
身長 体重 |
168cm 68kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1948年 |
引退 | 1958年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
中京商業学校、明治大学、東洋産業を経て、1948年に中日ドラゴンズに入団。
初年度の1948年、1番センターとしてレギュラー起用されると、打率.274、5本塁打、36打点、26盗塁を記録するなど活躍。
1949年、この年は2番打者として起用されると、初めての二桁本塁打となる12本塁打を記録した他、打率.290、73打点、31盗塁を記録。
1950年、全試合に出場し、リーグ最多の12三塁打を記録し、打率.306、13本塁打、79打点、30盗塁を記録。
1951年、キャリア最高となる打率.316を記録し、同年初開催となったオールスターゲームにも出場。引退までにこの年を含めて計4度オールスターゲームに出場している。
1952年頃からは年齢もあり徐々に成績が下がっていったが、1955年まで8年連続で二桁盗塁を記録し、1956年にはセ・リーグ最多の23犠打を記録。1953年8月には、読売ジャイアンツ戦でサイクルヒットを記録している。
1954年は2番打者としてつなぎに徹して、打率こそ.239と今一つながら、26盗塁、26犠打を記録してセ・リーグ制覇・日本一に大きく貢献している。
引退後、中日で2シーズンコーチを務めた後、解説者として活動。
走攻守三拍子を高いレベルで兼ね備えていた外野手。1950年には21捕殺を記録しており、千葉茂からは「原田さえいなければ、俺は生涯打率3割だった」と語られるほどの強肩の持ち主。また、球際にも強く、ライナー製の打球をギリギリでキャッチすることも得意としていた。
通算:11年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1234 | 5153 | 4508 | 634 | 1212 | 64 | 485 | 203 | 140 | 11 | 473 | 21 | 311 | 42 | .269 | .341 |
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最終更新:2025/01/14(火) 05:00
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