宮本敏雄(みやもと としお、本名:アンドリュー・トシオ・ミヤモト(Andrew Toshio Miyamoto))とは、元プロ野球選手である。
| OB | |
|---|---|
| 宮本敏雄 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | ハワイ準州マウイ島 |
| 生年月日 | 1933年4月26日 |
| 身長 体重 |
178cm 85kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 外野手 |
| プロ入り | 1955年 |
| 引退 | 1964年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
1933年4月26日生まれ。アメリカ合衆国ハワイ準州マウイ島出身。
幼い頃からスポーツ万能であり、ボールドウィン高校時代は野球だけでなくアメフト選手としてもプレーし、いずれもスター選手として活躍していた。
卒業後、ハワイ朝日で捕手としてプレーし新人王を獲得。1953年には日米野球のために来日する全米選抜チームが来日前にハワイ選抜チームと対戦。この試合ハワイ選抜として出場した宮本は2本の本塁打を放ち、評判となった。
来日初年度、51試合に出場し、打率.262、6本塁打、22打点を記録。
1956年、南村侑広から外野のレギュラーの座を奪うと、クリーンナップに定着し、打率.263、19本塁打、69打点をマークし打点王のタイトルを獲得。オールスターゲームにも出場した。
1957年、打率.259、21本塁打、78打点をマークし、2年連続で打点王を受賞。日本シリーズでも奮闘し日本シリーズ敢闘賞に選出されたほか、オールスターゲーム第2戦目のMVPにも選出された。
1958年、腰を痛めた影響や確実性を求められ右打ちを要求されたことで打撃に狂いが生じ、打率.219、6本塁打、23打点と低迷。それでもオールスターゲーム第1戦目のMVPに選ばれている。
1959年は打率.284と改善が見られたが、以降は再び低迷。1961年シーズンも低迷が続き解雇が濃厚となっていたが、日本シリーズで決勝打2回(うち1回はサヨナラ打)を記録するなど、打率.409、1本塁打、7打点の大活躍で日本シリーズMVPに選出。翌年の契約をもぎ取った。
移籍初年度はチームの雰囲気にマッチし、クリーンナップとして復活し、打率.252、11本塁打、47打点をマーク。翌1964年は代打中心に起用され、打率.268をマークした。
1965年、国鉄からサンケイに経営権が譲渡されたことで整理対象となり退団。そのまま現役を引退した。
引退後はハワイに戻り空軍基地に勤務していた。その後、実業家に転身したようである。
腕っぷしの強さを生かした豪快な打撃で活躍したスラッガー。大舞台や目立つ場面での勝負強さも光った。一方で非常に荒削りな選手でもあり、三振数も多かった。
鼻筋の通った顔立ちと爽やかな笑顔から「百万ドルの笑顔(百万ドルのエクボ)」と呼ばれていた。実際女性人気も高く、毎日のようにファンレターが届いていたという。
| 通算:10年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1007 | 3247 | 2917 | 309 | 726 | 90 | 359 | 49 | 35 | 18 | 246 | 31 | 524 | 84 | .249 | .314 |
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最終更新:2025/12/06(土) 05:00
最終更新:2025/12/06(土) 05:00
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