岩城親隆 単語

4件

イワキチカタカ

1.6千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

岩城親隆いわき・ちかたか 1537? ~ 1594)とは、陸奥岩城戦国大名である。岩城氏16代当。10代当にも同姓同名の人物がいる。

概要

伊達晴宗長男であるが、訳あって事前約束により岩城氏の養子となり、督を継いだ。しかし徐々に北上する佐竹氏の圧迫を受けるようになり、隠居させられてしまった。やがて岩城佐竹氏の一族が継ぐことになる。

信長の野望・創造」で一躍顔芸キャラになってしまった。どうしてこうなった

生涯

伊達氏15代当伊達晴宗岩城(15代当)の久保姫

詳細は久保姫の項を参照していただきたいが、宗が強引に久保姫を娶った関係で、後継男子のいなかった岩城に二人の長男を養子入りさせるという約束が成されていた。つまり、生まれる前から岩城氏の後継となる事が決まっていた。

が養子入りする事で、岩城氏伊達氏との関係も深まり、養岩城外交を駆使しながら小大名としての生き残りを図っていった。ただ、常陸佐竹氏は徐々に州への武侵攻を見せ始める。こうした状況で重は隠居、が当になるのと合わせて佐竹義昭を妻に迎える事で、伊達佐竹の両者間での緩衝となる事をす。

…が、そうした努もむなしく、義昭の後を継いだ佐竹義重は更に積極的な拡大方針を見せ、1570年を過ぎた頃には岩城氏佐竹氏の従属下に置かれてしまう。この頃には岩城親隆を差し置いて、佐竹義重が書状を発行するなどしていて行方不明になってしまった。この前後の時期に、敵の奇襲で敗れた念のあまり病に陥って狂乱した、という説話もある。

数年後には息子岩城が当となるが、実権は佐竹氏出身のが握っていた。は以後表舞台に登場しないが、系図によれば1594年まで生きていたとされる。余談だが、10代息子である11代当名前岩城である。

その後の岩城氏

岩城も1590年に死にしてしまった。その後は佐竹義重の子・岩城が跡を継ぐ。貞もまた宗・久保姫夫妻のなので岩城の血を引いている。そのまま岩城氏佐竹氏の庶流のような形になり、関ヶ原で一旦易されたが、なんとか大名として復帰を果たし、1620年以降は佐竹氏の久保田秋田のご近所・出羽亀田として続く。

には子がいたのだが、まだ幼かったことや、当時の伊達氏と佐竹氏と豊臣秀吉の関係などもあって、追放処分になってしまった。そのまま祖実家にあたる伊達に戻る。

…が、120年ほど後に岩城の子孫が断絶し、養子として岩城親隆の子孫が入った事で、また岩城氏佐竹系から伊達系に戻るという不思議な事態が起こるのである。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける岩城親隆の力一覧。 

外交で生き残ろうとしていた岩城らしい政治重視の値。まあそんな事より、岩城親隆と言えば創造の顔グラの唐突な顔芸…というか、ポーズも含めてネタにされる。両腕を構えた姿はよく「ファイティングポーズをとっている」と評される。ただ、顔の方は混乱しているというか困っているというか。外交もむなしく佐竹北上が止まらなくて「ど、どうなっておるのじゃあ!?という状況なのか、はたまた上で述べたように狂乱してしまったのか。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 94(B) 智才 78(B) 政才 124(B) 70 野望 40
将星 戦闘 42 智謀 43 政治 61
烈風 采配 43 戦闘 36 智謀 35 政治 56
世記 采配 33 智謀 31 政治 44 野望 47
蒼天録 統率 31 知略 34 政治 46
下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 武勇 知略 政治
創造 統率 65 武勇 36 知略 68 政治 54

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

急上昇ワード改

最終更新:2024/04/19(金) 21:00

ほめられた記事

最終更新:2024/04/19(金) 21:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP