工藤幹夫 単語

クドウミキオ

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工藤幹夫(くどう みきお)とは、元プロ野球選手である。故人

概要

1960年9月30日生まれ。秋田県本荘出身。中学時代には軟式野球東北大会で優勝を経験するなど、実力者として知られていた。

本荘高等学校に進学。2年時にはエースとして活躍し、には県大会を突破して東北大会まで勝ち進んだが初戦敗退。3年の県大会では決勝戦まで勝ち進んだが敗退し、甲子園大会には縁がなかった。全的な知名度はかったが、読売ジャイアンツドラフト補として調するなど、プロからも注される存在であった。

1978年ドラフト会議にて、日本ハムファイターズから2位名を受け入団。

初年度の1979年、一軍では3試合登板。なお、プロ入り後、アンダースローであった投球フォームをサイドスローに変更している。

1980年、一軍登板かったが、二軍では13勝を挙げてイースタン・リーグ最多勝を受賞。

1981年先発投手の一として起用され、2勝9敗、防御率4.86と今一つな成績に終わったが、日本シリーズでは5試合登板し2勝を挙げるなど奮闘している。

1982年、開幕から先発ローテーション入りを果たすと、シーズンが進むごとに調子を上げていき、6月以降は負けし、7月に6勝、8月に4勝を挙げ2ヶ連続でMVPを受賞。最終的には20勝4敗、防御率2.10という圧巻の成績を残し、最多勝最高勝率ベストナインを受賞チームプレーオフ進出に大きく貢献したが、終盤に右手骨折し離脱。プレーオフでの登板絶望的と思われたが、1戦に奇襲のような形で先発打線の援護く勝ち負けはつかなかったが、その後の3戦にも先発登板し1失点完投勝利チームは敗退したが、プレーオフ敢闘賞に選ばれた。

ただ、骨折全に治したわけではなくプレーオフでの力投は怪を押しての強行出場であった。そして、その代償は大きかった。

1983年開幕投手を任されるなど期待されたが、8勝8敗、防御率5.13と本来の調子を発揮できずに終わる。翌1984年をわずか1試合登板に終えると、その後も復活することはできなかった。

その後、練習生扱いを経て1988年には内野手に転向。ただ、結果を残すことはできず、同年限りで引退

引退後は地元秋田県に戻りスポーツ店を経営しながら、社会人野球クラブ由利本荘ベースボールクラブの選手兼任監督を務めた。

2016年5月13日、肝不全のため死去。享年55歳

人物・エピソード

変化球を使いこなし打者を翻弄したサイドスロー。時折腕の位置を変えて投じることから「スパイダー投法」とも呼ばれた。

西武ライオンズ戦で強さを見せた西武キラーでもあった。

通算成績

投手成績

通算:5年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 78 19 4 30 22 0 --- .577 413.2 113 160 191 172 3.74

獲得タイトル・表彰

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