式子内親王(しょくし / のりこないしんのう、1149~1201)とは、平安時代後期~鎌倉時代前期の皇女・女流歌人である。
百人一首89番の作者。後白河天皇の三女で、平家討伐の口火を切った以仁王は同母弟である。
10歳の時に、賀茂神社の斎院となるが、生来より病弱であったために20歳の時に賀茂斎院を辞して宮中に戻る。藤原俊成に師事し、歌人として活躍した。弟が起こした以仁王の乱による動乱、屋敷を九条兼実に横取りされる事件など、内親王は時代の波に翻弄され続けた。後に、体が弱いことなどを理由に出家、生涯独身を貫いた。
百人一首では「玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする」の和歌が載せられている。百人一首では珍しく、五七調の文体である。上の句の激しい口調と、下の句の儚げさのアンバランスが、恋心の複雑さを押し出している。詞書では「人目を忍ぶ恋」と記されており、この相手が藤原定家ではないか?とよく言われている。
藤原定家は、式子内親王の師・俊成の子であり、定家が若い頃から内親王と交流があったことは、定家自身が「明月記」で記している。内親王が晩年に病で伏した時に、定家は「明月記」の中で内親王の身を案じる記述が多く見られるが、その死についてはしばらく触れていない。こうした意味深な記載から、いつしか定家と内親王は禁断の恋仲だったという話がまことしやかに伝えられるようになった。藤原朝忠が風評被害を被った江戸時代の説話「百人一首一夕話」によると、俊成が定家の部屋を訪れると、先ほどの「玉の緒よ~」の歌が内親王の実筆で残されており、二人の関係を知ったと言われている。とは言え、内親王は定家より13歳も年上であり、物語としては面白いが、二人が本当に恋仲だったかどうかは、非常に疑わしい(定家が内親王を慕っていたことは間違いないのだが)。
真偽はともかく、藤原定家と式子内親王の仲を窺える出典として、平安時代後期に作られた「松浦宮物語」が挙げられる。若き貴族の貴公子が唐に渡り、数々の女性と恋の遍歴を重ねる内容なのだが、作者は文体から定家という説が有力であり、ヒロインたちのモデルは式子内親王とも考えられている。「うた変」では主人公のモデルも定家であると描かれているが、さすがにそこまでは不明である。しかし、仮にこれが正しいとしたら、定家は「幻想交響曲」を作曲したベルリオーズと似た匂いを感じる。厨二病も極限まで達すれば、芸術になるということだろうか?(マテ)
もう一つは、能「定家」における定家と内親王の物語である。京へ向かう僧侶がある女性から供養を頼まれ、目的地に向かうと蔦葛がからみついた古いお墓にさしかかった。女性は「これは式子内親王の墓で、生前内親王と定家は悲しい恋に落ち、定家は死んでもなお、葛となってお墓にからみついて2人とも成仏できない」と話す。その女性こそが内親王の幽霊だった。僧侶はお墓に念仏を唱えると、葛はほどけていき、内親王はお礼に舞を披露する。しかし、結局再び葛が内親王の墓にまとわりついてしまうというお話である。実際に、テイカカズラという名前の葛があり、言うまでもなく名前はこの能から由来する。観賞用に栽培されたものもあるが、有毒である。
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最終更新:2024/12/27(金) 03:00
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