田中新兵衛とは、幕末の暗殺者であり、幕末四大人斬りの一人である。通称「人斬り新兵衛」
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天保3年(1832年)、鹿児島に生まれる。薬売り、または船頭の子とされる。示現流よりも更に実戦向けの剣術と言われる薬丸(野太刀)自顕流の使い手であったと言われる。また、史料によると島津織部という薩摩藩門閥家臣の家来を務めていた事が確認されている。
文久2年(1862年)京都に上洛し、土佐勤王党の首領・武市瑞山と意気投合し、義兄弟となる。この頃から岡田以蔵らとともに数々の暗殺事件に関与している。
文久3年(1863年)5月20日夜、禁裏朔平門の近くで攘夷派公卿の姉小路公知が暗殺されるという事件が起きる。この時、現場に残されていた刀について調べられた結果、田中のものであると確認され、会津藩兵によって捕縛される。
尋問の際に、刀は盗まれたものであると証言し、刀を渡されると突然切腹ししたうえ首をかき切って自殺してしまった。そのため、この事件の犯人については長い間謎とされていたが近年調査が進み、実行犯のうちの一人が田中だったとする説が有力である。
それによると、現場に置かれていた刀が田中のものであることを否定する史料が存在しない事、事件後田中自身が関与を認めた事が薩摩藩史料に残されている事、事件現場に居合わせた姉小路の従者が田中の遺体を検分し、犯人であると確認している事などから、田中が実行犯の一人であることは間違いないであろうとしている。
ただし刺客は三人おり、残りの二人については、滋野井公寿、西四辻公業なる二人の公卿もしくはその家臣である可能性が高いとされている。
ともあれ、この暗殺事件によって薩摩藩は御所への出入りを禁じられて一時的に中央政局から失脚し、その事が3ヵ月後の八月十八日の政変への呼び水となるのである。
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最終更新:2025/12/13(土) 05:00
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