百式司令部偵察機とは、大日本帝国陸軍が運用していた偵察機である。
陸軍の機体通し番号であるキ番号は「キ46」。愛称は「新司偵」。略称は「百式司偵」「ヨンロク」など。
「百式」は皇紀2600年(1940年)に仮採用されたことから名づけられた。
余談だが、この年に採用された兵器の呼称は、海軍では「零式」、陸軍では「百式」、となっている。
九七式司令部偵察機の後継機として三菱重工業が開発・製造した。
設計者である久保富夫氏の
との言葉(Bv141涙目)通り、敵戦闘機の追撃を振り切るほどの高速性を持つほっそりとした美しい機体に仕上がった。
その美しい姿は連合国側から「空の百合」、「地獄の天使」と呼ばれたほどである。
百式司偵には一型から四型まで存在し、一型・四型は試作型、二型・三型は量産され太平洋戦争において陸軍の主力偵察機として活躍した。
試作型である一型の初飛行は1939年である。この時点で一式戦闘機や零戦の試作機である十二試艦戦の最高速度を上回る540km/hを達成しているが、陸軍の要求した最高速度である600km/hを大幅に下回ったため制式採用は危うく見送られるところだったという。
結局、三菱がより一層の性能向上を果たすという条件で1940年に仮採用された。
一型は少数が生産され主に中国戦線へ投入された。
1941年3月には日本の航空機で初めて600km/hを超える(ただし一型で既に超えていたとする説もある)二型を開発、以後二型が百式司偵の基本型になり、4つの型で最も生産された。
二型は太平洋戦争開戦と同時に各戦線で偵察任務に就き、陸軍だけでなく海軍の作戦にも協力するなどの活躍を見せた。
現地での改造で速射砲・機関砲の搭載や、燃料タンクを増設した例もあるとか。
二型をベースに練習機も少数が作られた。
1943年、エンジンの改良と風防形状の変更(段無し風防を取り入れ機体形状が流線型となる)により最高速度の向上に成功した三型が登場。細部の改良などで642km/hという記録を達成し、陸軍が太平洋戦争中実戦投入した機体では最速の航空機となった。
高高度でも優秀な性能を発揮できたため、1944年からは20mm・37mm機関砲を搭載した防空戦闘機に90機が改造され、B-29の迎撃に使用されている。
しかし、
高速を生かして敵機の追撃を振り切る設計思想であるが故に防弾装備が貧弱であったこと、
重量のある機関砲を搭載したことにより運動性の低下を招いたこと、
この二つが原因で大編隊を組んで飛来するB-29相手にかなり苦戦を強いられ、返り討ちにあった百式司偵は多かったようである。
それでも、時には体当たりをしてでも撃墜するなど搭乗員は奮戦し続け、一定の戦果を上げた。
三型には甲・乙・丙、3つのバリエーションが存在する。
甲型は純粋な偵察機、乙・丙型は防空戦闘機となっている。
ターボチャージャー付きエンジンを搭載した試作機。
高度1万mにおいて630km/hを達成したものの、エンジンの不調を解決できず量産されなかった。
生産数は4機に留まっている。
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最終更新:2025/12/06(土) 19:00
最終更新:2025/12/06(土) 18:00
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