若生智男(わこう ともお)とは、元プロ野球選手である。
OB | |
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若生智男 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 宮城県仙台市 |
生年月日 | 1937年4月5日 |
身長 体重 |
182cm 82kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1956年 |
引退 | 1976年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
東北高等学校に進学。速球派のエースとして活躍し、若生忠男や若生照元らとともに「東北の三若生」と呼ばれるなどプロからも注目を集めたが、甲子園大会に出場することはなかった。
2年目の1957年、リリーフを中心に登板機会を得るようになる。
1959年、27試合に登板し、うち14試合で先発投手として起用され、3勝2敗、防御率2.18という成績を残す。
1960年、先発ローテーション入りを果たすと、シーズン通してローテーションを守り、初めて規定投球回に到達。13勝8敗、パ・リーグ4位の防御率2.15と好成績を残し、リーグ制覇に大きく貢献した。
1961年には9勝を挙げ、1962年にはキャリアハイの15勝を挙げ、防御率2.73という成績をマークした。
1963年は故障の影響で低迷。1964年、マイク・ソロムコとのトレードで阪神タイガースへ移籍。
阪神では先発・リリーフ双方で活躍。1964年~1965年の2シーズンで8勝に終わったが、1966年には10勝を挙げ4年ぶりに二桁勝利を達成し、防御率もセ・リーグ3位の1.96をマーク。
1967年、8勝を挙げ、同僚の権藤正利に次ぐセ・リーグ2位の防御率2.14をマーク。
1968年は3勝に終わったが、1969年には12勝を挙げ、オールスターゲームにも初出場を果たした。
1970年からはコーチ兼任でプレー。同年は13勝を挙げ、翌1971年は10勝を挙げた。
1972年、5試合の登板に終わり、同シーズン終了後選手専任に戻る。
1974年、7勝を挙げたが、シーズン終了後に安仁屋宗八とのトレードで広島東洋カープへ移籍。
広島移籍初年度は中継ぎ投手や谷間の先発投手として起用され、広島のリーグ初優勝に貢献。1976年、現役を引退。
引退後、広島の投手コーチに就任し、コーチとしてのキャリアを歩み始めると、その後古巣のロッテ、阪神の他、福岡ダイエーホークスや横浜ベイスターズでもコーチを務め、その育成手腕を高く評価された。
横浜退団後は、NPO法人「野球振興ふるさと宮城プロ野球選手・OB会」副理事長などを務めたほか、女子野球のチーム・エネルゲンや社会人野球の千葉熱血MAKINGで監督や指導者を務めた。
現在は評論家として活動する傍ら、船橋市の中学校と高校で外部コーチとして活動し、2020年からは千葉日本大学第一高等学校の特別コーチを務めている。
高い制球力と安定感を持ち味とし、先発・リリーフ双方でチームを支えた右腕。
大柄な体格だが、力任せに投げない投法が特徴的であった。
弟の正広は東北高等学校や九州国際大学付属高等学校の監督を務め、両校を甲子園大会準優勝へ導き、ダルビッシュ有や高井雄平らプロ野球でも活躍した名選手たちを排出した。
通算:21年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 628 | 58 | 17 | 121 | 120 | 2 | --- | .502 | 2260.1 | 632 | 1396 | 814 | 680 | 2.71 |
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最終更新:2024/12/26(木) 20:00
最終更新:2024/12/26(木) 20:00
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