藤原道兼(ふじわらの みちかね、961~995)とは、平安時代中期の貴族である。
父・兼家が花山天皇を退位・出家に追い込んだ寛和の変では、兄弟の道隆・道綱・道長らが三種の神器を持ち出すなどの裏方に徹したのに対し、道兼は天皇を出家させるための大芝居を打つ。蔵人として花山天皇の側で仕えていた彼は、愛妾を失い悲嘆にくれている天皇に出家をそそのかし、自分も一緒に出家すると言い天皇を密かに宮中から連れ出した。もちろん道兼が出家したがっているというのは真っ赤な嘘で、父・兼家との共謀であった。一度は出家を思い直そうとした花山天皇を迫真の演技で諫めた道兼は、先に花山天皇が髪を下ろすのを見届けると、その前に実家の父・兼家のところへ別れの挨拶へ行ってくると言い、そのままトンズラしてしまった。花山天皇改め花山法皇は騙されたことに気づくが、時既に遅し。兼家は自分の孫にあたる皇太子・懐仁親王(一条天皇)を即位させて、その摂政・関白となった。
花山天皇退位の立役者となった道兼だったが、功績よりも年功序列順で、官位は長兄の道隆の下位に甘んじた。さらに兼家が亡くなると、摂政・関白の座は道隆のものとなる。面白くない道兼は、常に「花山天皇を退位させたのは自分だ」と公言し、道隆を激しく憎んだという。
間もなく、道兼は当時流行していた天然痘に倒れてしまう。道隆が深酒が原因の糖尿病で亡くなると、関白の座は道隆の子・伊周になると予想されていた。ところが、道隆が晩年に伊周をゴリ押ししていたことを一条天皇が嫌ったのか、病床の道兼に関白の座が転がり込んできた。病を押して参内したことで病状を悪化させたのか、参内してからわずか7日後に35歳の若さで病死した。世間は道兼を「七日関白」と評した。
なお、道兼が病に倒れたのは、関白に任命されてからとも言われている。そのため、あまりにも早すぎる死に不審を抱く人も少なくなく、伊周に暗殺されたのではないか?という噂も流れたという。なお、かつて日テレで放送された歴史番組「知ってるつもり?!」で紫式部が特集された時は、道隆が単に病死と表示されたのに対して、その数日後に亡くなった道兼は「変死」と表示された。
陽気で豪快な兄・道隆や、負けず嫌いで剛胆だった弟・道長と比べると、道兼の後世の評判は芳しくない。自分の功績ばかり誇示し、兄・道隆を妬み続ける陰湿で粘着質な性格が災いしたようである。「大鏡」に比べて批判の少ない「栄花物語」でも、顔色が悪くて毛深く醜かったと、ひどい言われようであり、おまけに子の藤原兼隆や孫の藤原兼房は乱暴な振る舞いが多かったと、踏んだり蹴ったりである。しかし、道長のライバルであった藤原実資とは若い頃から仲が良く、道兼が死の床に就いた時は、真っ先に彼の元へ見舞って案じたという。
なお、道兼は実権を握ってすぐに亡くなったため、彼の一族は政治の舞台から外れてしまうが、関東の戦国大名である宇都宮氏や小田氏は、道兼の子孫と言われている。
掲示板
14 ななしのよっしん
2024/01/08(月) 22:56:12 ID: BojwKgi3HI
長男ではなく次男の道兼に兼の字を与えたのは意味があるのかな。
15 ななしのよっしん
2024/01/09(火) 20:20:33 ID: LqcG4cQ+IV
子の兼隆は下男を撲殺させた事例&自分の下女が別の家の下女と井戸の使用で喧嘩→それの報復+「人の土地勝手に住みやがって!」という勘違いで従者を派遣し下女の家を略奪+破壊
なお下女の御主人は右大臣にまで上り詰める藤原実資「ほーん…うちの下女が世話になりましたね?」→平身低頭に弁償する羽目に
孫の兼房も宮中で気に入らない相手に飲み会の最中に乱闘事件→逃げ込んだ控室に石+宮中仏事中に喧嘩で兼隆でさえ子の粗暴さに人前で泣きだして謝る羽目に…
といった粗暴な逸話が多く公卿になれる主流から除外されていったから後世の史書でも悪く描かれてしまうように…
ドラマでのバーサーカーっぷりも子達の不祥事を統合したって感じかな
16 ななしのよっしん
2024/01/09(火) 21:37:52 ID: zcOSu/+s+e
戦国時代が特に頭おかしいと思ってたけど、倫理観なんかはその前の平安・鎌倉時代の方がヤバいんだな。
前のドラマの信長と秀吉が自分を理解してくれる友達がほしかったツンデレヤンキーと構ってちゃんにしか見えなくなってしまった。
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最終更新:2024/04/25(木) 23:00
最終更新:2024/04/25(木) 23:00
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