貴ノ浪とは、藤島部屋→二子山部屋→貴乃花部屋所属の元大相撲力士である。最高位大関。
現役時代の体格は身長2m公称196cm、体重160kg。得意技は左四つ、寄り、上手投げ、極め出し、河津掛け。愛称はやくみつるの4コマ漫画から「にょ浪」。
引退後は年寄・音羽山を襲名、貴乃花部屋付きの親方となっていた。
概要
本名は浪岡貞博(なみおか ただひろ)だが、「さだひろ」と読み間違えられることが多かったため四股名やパスポートは「さだひろ」にしている。
青森県三沢市(浪岡町ではない。七尾市出身の輪島みたいなもの)出身。藤島親方(元大関貴ノ花)から勧誘され、両親が貴ノ花ファンだったこともあり藤島部屋に入門。1987年3月場所に初土俵を踏む。
4年後の1991年3月場所新十両に昇進。普通なら早い出世と言われるが師匠から「遅い」と叱責を受ける。親方の息子2人がもう幕内にいたからそう言われるのも仕方ないね。この時貴ノ花+浪岡で貴ノ浪と命名された。
1991年11月場所新入幕で7連勝し話題となった。9日目に勝ち越した後全敗で8勝7敗に終わったが「未完の大器」として注目され始める。
1994年1月場所後大関昇進。新大関の3月場所は12勝3敗で横綱曙・同部屋の平幕貴闘力との優勝決定巴戦に進出。兄弟子をあっさり下したが横綱に退けられ優勝を逃した。
その後1996年1月・1997年11月場所にいずれも横綱貴乃花との同部屋優勝決定戦を制し2度の幕内優勝を果たした。
休場明けで迎えた1999年11月場所6勝9敗と負け越し関脇に陥落。翌2000年1月場所10勝5敗で大関復帰を決め、千秋楽に勝った後のインタビューでは嬉し泣きした。だが3月は武蔵丸の悲劇を演出するも7勝8敗、5月は新入幕の栃乃花に敗れるなど6勝9敗と2場所連続で負け越しまたも大関から陥落、以降復帰はならなかった。
その後は大体平幕、時々小結の地位にあってスケールの大きな相撲を取り観客を沸かせた。2004年5月場所前に心臓の不調で入院し相撲どころではなくなり、出場したが初日から3連敗、新入幕の白鵬と近い番付ながら対戦することなく現役を引退した。
引退後も心停止で死の淵をさまよったが回復し、部屋の稽古指導や協会の広報、NHKでの中継解説を中心に活動していた。
取り口
長身と長い手足からなる深い懐と強靱な足腰を生かし相手を引っ張り込み、極め出しや極め倒しで勝つという他人には真似できない芸当の持ち主だった。簡単に相手に二本差しを許し、自ら棒立ちする不利な姿勢こそが貴ノ浪十分の型で、当時は評論家から悪癖として批判されたがもっと評価されるべきである。この取り口は小学生の頃身に付けたらしく、師匠が改善を命じても負傷したので矯正はやめたという逸話がある。だがその性質上曙や武蔵丸ら突き押しが得意の長身力士を苦手にし、特に曙には5勝34敗と大きく負け越している。
ただしライバルだった武蔵丸とは武蔵丸の取り口がケガと馬力の衰えもあって突き押しから四つ相撲メインに変わったこともあり、最初の頃は3勝16敗と大きく負け越していたが、その後は一時は7連勝をするなど対戦成績が一番拮抗した時期には16勝20敗まで持ち直している。その後は貴ノ浪の衰えもあり、再び対戦成績には差が開きはじめるものの、最後の3回の対戦は貴ノ浪が意地を見せ3連勝している。ちなみに2人の20戦目以降の対戦成績だけを見れば、18勝21敗とほぼ拮抗している。
また、取り組みの中で自らが不利な状況に陥った際に河津掛けをよく繰り出した。大関昇進を決めた場所の曙戦、初優勝を決めた貴乃花戦、2度目の優勝を果たした場所の栃東戦など大一番で決まった。
エピソード
武蔵丸との関係
- 共に1971年生まれ。
- 新入幕と大関昇進が同じ場所。
- 大関在位時の勝利数は両者共に353。
- 幕内での対戦58回(21勝37敗)で当時の最多記録。現在は稀勢の里VS琴奨菊の62回(更新中)
- 初めての金星を獲得(2002年11月場所)。
- 武蔵丸引退時に「寂しい...」と号泣。
- 現役時代はライバルなので口も聞かなかったが、引退後は仲が良かった。
- 全国のカードキャプターさくらファンを泣かせる。
その他
- 控え力士として物言いを付け、兄弟子貴闘力の勝利をアシスト。
- 剣晃を苦手にし9勝9敗。初優勝の場所でも敗戦。
- プレーステーションなどのテレビゲームやNFLに造詣が深い。
- 千葉ロッテマリーンズや浦和レッドダイヤモンズのファン。
- ダーツの名手で、場所中も練習するほど。
- 大関・朝青龍戦で幕内初の伝え反りによる敗戦を喫する。
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関連項目
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