ヨハン・シュトラウス1世(1804~1849)とは、19世紀前半の作曲家である。通称「ワルツの父」。
概要
ウィーンのドナウ河畔にある宿屋兼居酒屋「ツム・グーテン・ヒルテン」に生まれる。幼い頃から店で演奏する人々に囲まれ音楽に親しみ、そのうちの一人からヴァイオリンをプレゼントされた。しかし、7歳の時に母が亡くなり、父も再婚してすぐドナウ河に溺死体となって発見されてしまう。継母は再婚をして店を引き継ぐが、連れ子だった彼は13歳になって製本屋に徒弟奉公に出されてしまった。
ヨハンはすぐにそこを脱走し、ヴァイオリンを片手にあちこちを転々とする。やがてポリシャンスキーの師事を受け、14歳で有名なミヒャエル・パーマーの一座の団員となった。そこで知り合った3歳年上のヨーゼフ・ランナーと意気投合し、四重奏団を結成して独立。二人の作曲と演奏によって名声を高めていき、どちらもすっかり有名人になったのであった。
ところが、1825年に些細な口喧嘩から二人は解散してしまう。すでに身重だった宿屋の娘・アンナという恋人のいたヨハンは結婚し、その年には後のヨハン・シュトラウス2世となる長男が生まれた。ヨハン・シュトラウス1世とヨーゼフ・ランナーのどちらのグループも人気が高まっていき「ワルツ合戦」を繰り広げていく一方で、ヨーゼフ、夭逝した三男、エドゥアルド、アンナ、テレージアと次々に子供たちが生まれていった。
アンナは彼らの教育に情熱を抱き、音楽家に育てようとするがヨハンは反対する。しかし、それでも密かに音楽教育を行うアンナに激昂し、別居状態となり、帽子作りを行うエミーリエという愛人と結ばれる。以後アンナとヨハン・シュトラウス2世を中心としたアンナの子供達と、ヨハン・シュトラウス1世とエミーリアの子供達という2グループに分かれてしまった。
1844年にヨハン・シュトラウス2世がデビューをすると、すでにヨーゼフ・ランナーが亡くなっていた後のウィンナ・ワルツの世界は、父子対決の様相を呈してくる。ところが1848年に中央政界でメッテルニヒが失脚すると、連動して彼を支持していたヨハン・シュトラウス1世も人気が凋落してしまう。さらに不幸が続き、翌1849年にロンドンでの演奏旅行から帰ると、エミーリエの家で娘の猩紅熱が感染し、わずか45歳の生涯を終えた。
こうした生涯の結果、息子のヨハン・シュトラウス2世に比べると露出が少なく、現在はほぼほぼラデツキー行進曲のみが演奏されるのがもっぱらとなってしまっている(というか日本はまだしも世界的には、2世の方のみをヨハン・シュトラウスと表記することもしばしば)。
関連動画
関連項目
- 作曲家一覧
- クラシック
- ヨハン・シュトラウス2世
- ラデツキー行進曲
- ○○焼きシリーズ(BGMにラデツキー行進曲が使われることが定番となっており、BBEMYBABY以降の風評被害ネタの括りに、彼も加わることがしばしばある)
- 0
- 0pt