千葉貞胤(1291~1351)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
千葉氏とは桓武平氏のうち房総平氏に属し、代々下総守護に任じられてきた名門である。
千葉貞胤は下総・伊賀守護の千葉胤宗の子として生まれた。しかし千葉氏は彼の祖父である千葉頼胤が元寇での傷で亡くなった後、本来の嫡流であった千葉宗胤が異国警固番役として大隅国守護になった一方、彼の嫡男千葉胤貞が幼かったため、貞胤の父である千葉胤宗が実質的な惣領として支配し、それを貞胤が継承してしまったのである(似たような名前が続いてややこしいな…)。要約すると分家である身ながら、遠隔地に取り残された嫡流にとって代わってしまったのであった。
千葉貞胤は1331年に笠置山で挙兵した後醍醐天皇を討伐するために上洛し、その後は楠木正成攻めに参戦していた。しかし1333年の後醍醐天皇の再挙で幕府を離反し、新田義貞の鎌倉攻めに同行して金沢貞将を討ち取っている。
建武政権では下総は足利尊氏のものになったものの、実質的な支配者は彼だった。そして1335年に足利尊氏が反旗を翻した際、上で記したように家中が真っ二つに割れていたのを利用され、彼が京にいる隙に千葉胤貞、相馬親胤らが千葉氏の本拠を占拠してしまったのであった。
その流れから千葉貞胤は宮方につくことになり、新田義貞とともに手越河原の戦いでは足利直義を敗走させている。箱根・竹ノ下の戦いで敗戦後京に戻ったが、北畠顕家の一度目の上洛軍と合流すると足利尊氏を敗走させている。しかし1336年の尊氏再挙後、京から脱出して義貞とともに越前に向かった。しかし木芽峠で義貞とはぐれ、斯波高経に追いつかれた彼は、説得されて北朝に帰順。下総の守護に任じられて南朝軍との戦いに従軍していき、1339年には伊賀の守護に、1346年には遠江の守護になり、名族としての威厳を保つことに成功したのである。
もっとも子の千葉氏胤があちこちでやらかしたため、以後は下総守護のみとして続いていくこととなる。
一方千葉胤貞は九州千葉氏として命脈を保ち、鍋島直茂が養子に入っていた縁から、近世には佐賀藩の家老となっている。
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