大島義政(1306~1344)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
大島氏は大井田氏の宗家とも分家ともいわれており、里見氏を中心とした越後新田氏の一門である。
1333年に新田義貞が挙兵すると、ほかの一族とともに参戦し、堀口貞満とともに巨福呂坂を担当し、執権であった赤橋守時率いる軍を敗走させた。
大島義政は建武政権でも従五位下に任じられ讃岐守、兵庫頭を歴任し、武者所にもその名を連ねていた。その後1335年の足利尊氏離反後は竹ノ下の戦いに新田義貞軍として参陣していたと『太平記』には記されているが、『梅松論』には九州落ちした足利尊氏の山陰山陽防衛ラインの最終である、周防を任されていると記されている。敗軍の将である尊氏に味方したことから理に走ったというより、岩松氏や世良田氏同様、新田本宗家の権威向上よりも足利一門としての活動を優先したと考えられる。
彼は1344年に亡くなるが、息子である大島義高が1360年に三河守護になり、1373年ごろにもその職務にいたことがみられるなど厚遇された。しかし南北朝が終結すると大島義政のひ孫・大島義員は里見本宗家に従い、安房里見氏の家臣にその子孫がみられるという。
関連項目
- 0
- 0pt