新宮党(しんぐうとう)とは、戦国時代の大名家、尼子家に所属した戦闘集団である。
概要
尼子経久によりわずか一代で山陰を収める大勢力となった尼子家だが、その破竹の進撃を支えたのが経久の弟である尼子久幸を党主とした親衛隊的な戦闘集団、月山富田城の山麓にある新宮谷に本拠を構える新宮党だった。
戦国時代までの武士はほとんどが半農半士で、織田信長が兵農分離を進めるまでは戦闘専門の集団を配下に持つ武家は珍しかった。そんな中で常時戦闘のできる武闘派集団を信長に先駆けること数十年前、尼子家は既に所有していたのである。
尼子家を支える主力部隊として新宮党は非常に重用された一方、権限が大きくなりすぎ、出雲の寺社の支配権すら本家を差し置いて手にしていた。そのため経久から家督を相続した晴久と、久幸を毛利攻めで失った後に本家からの独立を進めた新宮党の関係は悪化し、ついに1554年、新宮党の関係者は晴久によって尽く暗殺、新宮党は本家に吸収された。
一説には尼子家を分断する毛利元就の謀略とも言われていたが、粛清後しばらくは特に尼子家の内政に大きな問題が出ておらず、むしろ分散していた権限を集約する事に成功していたため、これは純粋に晴久の政策だと近年の研究で明らかになっている。
一族で唯一生き残った幼子は京の東福寺で僧侶になったが、尼子本家の滅亡後に山中幸盛、立原久綱らに連れ出されて還俗し、尼子勝久として尼子再興軍の首領となった。
関連項目
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