「織田信長」(おだ・のぶなが 1534 ~ 1582)とは、日本の戦国時代の武将・大名。説明不要の戦国時代の天下人であり、三英雄の一人。「第六天魔王」にして「覇王」な「尾張のうつけ」である。
生涯
尾張守護である斯波氏に仕える清州織田氏……にさらに仕える清州三奉行である織田信秀の子として生まれる。つまり信長の実家の家格は"そこそこ"程度だったが、祖父や父・信秀が港交易で莫大な利益を稼いでいたため本家からも一段と頼りにされており、その分妬まれてもいて、父と他奉行間の対立も絶えなかった。
幼少の頃は行儀が悪く、シンプルに言えばド不良だったため「大うつけ」と呼ばれた。一次史料級にも様々なエピソードがあり、年長の言う事を一切聞かず自分の考えで動きまくる扱いづらい若者であった事は確かなようである。ただ同年代の不良仲間には気に入られていたようで、信長初期の旗本衆にはこの頃の悪友が多数いる。
父・信秀は港利権で稼いだ財力から本家から頼りとされるうちに軍事的な実権を握り、晩年は隣国の斎藤道三・松平家(徳川家康の父・祖父)との戦いに明け暮れたが、駿河の今川義元が本格介入してきた辺りから雲行きが怪しくなる。信秀は1549年に今川の太原雪斎に小豆坂で大負けして劣勢が確定、自らの終わりも悟ったのであろう、斎藤道三の娘である斎藤氏(濃姫/帰蝶)を子・信長の正室に迎えてなんとか美濃-尾張の同盟を固めた後、すぐに病没した。
信長は「実家を敵視している親戚2家」「弟・織田信勝との後継者争い」「外敵に松平、その後ろに明らかに敵う相手ではない今川」という極めてハードモードな状態で家督を継承した。兎にも角にも身内との抗争を続ける信長だったが、頼みの同盟相手である義父・斎藤道三がその息子・斎藤義龍に敗死させられ、斎藤家は織田と断交。こうなるともはや近場の権力者ほとんどが敵であり、一つボタンをかけ間違ったら滅亡待ったなしのここからすべてを平らげた信長がどれほどの男だったのかは推して知るべしである。
信長は、織田信友、織田信清、織田信勝といった尾張内抗争を経て、隣国の大大名今川義元を桶狭間の戦いで破り、義元を討ち取った。その後も戦い続け、尾張平定を成し遂げた。つまり…勘違いされやすいが今川に勝ってからようやく尾張を平定している。この時点で、信長は父や祖父を超えた。
元今川家臣であった徳川家康との同盟を経て、信長は斎藤義龍の美濃攻略へと向かう。当時の美濃は信長の他に武田信玄などもその勢力を伸ばさんとしていたが、織田信長は7年かけて大国美濃を攻め取る。家中の不穏分子も取り払い、120万石を領する日ノ本有数の大大名となった。
一方、応仁の乱以降まったく定まる事のない日本史上最悪の情勢といっていい当時の中央(京都周辺)では、将軍・足利義輝を弑逆した三好三人衆&筒井順慶VS三好義継&松永久秀といった絵図で骨肉の抗争が続けられていた。稲葉山城を「岐阜城」と改名し、地方の覇者となった信長は義輝の弟・足利義昭の依頼を受けて上洛。北近江の浅井長政に妹(または従妹)とされるお市の方に嫁がせ、その麾下に加えた。道中、南近江の六角義賢を破り、見事足利義昭を上洛に成功させて第十五代将軍に擁立する。この際、大満足の義昭から管領や副将軍などを打診されたが、信長は断ったとされる。京都・山城を追われた三好三人衆を中心に、斎藤氏の忘れ形見である斎藤龍興と六角氏らを交えて義昭-信長ラインに対する抵抗が続けられるが、信長は粘り強く対処した。また、伊勢側にも滝川一益らを使って勢力を拡大し、北畠氏を屈服させて一族を抹殺している。信長は、ここまでは破竹の勢いで日ノ本の中央を席捲していた…。
しかし…あくまで室町幕府の回天をモットーとして動く義昭と信長は、次第に仲違いしていく。幕府の軍として次は朝倉義景を攻め滅ぼそうと動いていた信長のもとに、妹婿・浅井長政の離反の報が届いた。信長自ら「虚実あるべし」と述べたとされるほど信じがたい話だったとされるが、ともあれ、京都と本拠地美濃・尾張を寸断する場所となる近江の浅井長政が背いたのは痛恨の裏切りであった。浅井・朝倉連合を姉川の戦いで家康の助力もあり破ったが、直後の三好三人衆との争いで沈黙を守ってきた巨大な宗教勢力の総本山・石山本願寺が敵方に参戦してしまう。しかもしかも浅井・朝倉が再度軍をまとめて近江坂本に侵攻してきた上、比叡山がそれを支援して連合軍はどっしりと志賀に居座り、織田は合戦して勝つ事すらできない状態になる。尾張・伊勢では長島で一向一揆が起こって国人衆が同調、実弟織田信興が一向宗に自害に追い込まれた。同時期、尾張の東側では今まで同盟していたはずの甲斐の虎・武田信玄が西上の動きを見せていた。これらの背後には仲違いした義昭の影がちらつく。…後世に信長包囲網と呼ばれる、苦境の戦いがはじまった。
配下武将の活躍もあり、結果的には信長はこれら抵抗勢力のほとんどを各個撃破していく。しかし、無尽蔵の戦意と圧倒的な財力を誇り頑強に抵抗・身内が幾人も殺されてしまった本願寺相手や、一番手家臣である佐久間氏を援軍させたのにも関わらず防波堤の徳川家康が三方ヶ原で粉砕されてしまった武田には特に苦労し、一歩間違えれば…の連続だったことは想像に難くない。また抵抗勢力を各個撃破し続けるうちにその外側の勢力が参戦…という流れを繰り返しており、後半は毛利輝元や上杉謙信、長宗我部元親などと敵対して、信長が天皇に泣きついてまで包囲網側と和睦した当初ほどの危機感はないにせよ、結局のところ信長包囲網は信長が死ぬまで継続した。
1575年、信長は徳川家康と長篠の戦いで武田勝頼を撃破。精強武田軍を数多討取り、多数の武田重臣が戦死した。武田家の資料と言われる甲陽軍鑑では「長篠で勇士100人中98人が死んだ」とまで言われるほどであった。翌年は天王寺において3000の兵で15000の本願勢を撃破。内政面では絢爛豪華な安土城を築き、その後も荒木村重、松永久秀、別所長治、武田勝頼といった多くの勢力を滅ぼした。
1582年、信長は朝廷から太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれかに就任するように要請を受けた。既に織田信長の直轄勢力は日本の過半を占め、東北・九州などの遠隔地でも信長と通じ、その影響を受けた勢力を含めれば日本のほぼ全てが彼の勢力下にあった。もはや織田信長の天下は定まり、新しい時代が来ると皆が思った。織田信長へ徹底抗戦を続ける上杉景勝も「冥土の土産」と述べるほどであった。だが、織田信長は朝廷の要請を保留[1]。
そして、信長の返答が来ることはなかった。1582年6月2日、京の本能寺にて、明智光秀の謀叛にあい自刃。息子である織田信忠も自刃した。その後、織田家は後継者争いに際して重臣であった羽柴秀吉や柴田勝家の介入を否定する事ができず、結果的には秀吉に勢力圏を簒奪される形となったが、織田信雄らによって命脈を保ち、江戸時代ひいては近現代までその子孫が続いている。
織田信長がやり残した新時代への体制構築は、その後豊臣秀吉、徳川家康へと受け継がれた。
ニコニコ動画では、織田信長を直接扱った動画いくつかと織田信長を題材とした作品(ゲーム、ドラマ、…)をもとにした動画が投稿されている。
信長の主な合戦
稲生の戦い (1556年)
弟・織田信勝(信行)との家督争い合戦。柴田勝家や林秀貞ら家老級の武将が信長を裏切って弟側に味方し、兵数700 VS 1700というかなりの劣勢で実際に信長方の名有り武将が何人か死んだが、信長の指揮力によって双方には士気の差があり、勝利した。
お家の利権を受け継いだのはあくまで信長であり、二人の資金力には差があったために信勝直属の手勢は少なかったとされ、実質的には信長VS信勝を担いだ家老どもの戦いとも言える。
それだけに「実はうつけなどではなく名将級の男気を持っていた」信長の一面を見た勝家らは途中で戦意喪失し(本気で内紛しても斎藤や今川に滅ぼされるだけ)、信長を認めた時点で敵側の動機が薄くなり、信長ほど手勢を持たない信勝が戦いを続ける事は難しくなったというのが実情のようだ。
いずれにせよこれで実家の家督争いの主権は信長が握った。とはいえあくまで実家でイニシアティブを握っただけで、本家や他の分家との争いはまだまだ続き、浮野の戦い(1558年)などに繋がる。
桶狭間の戦い(1560年)
北条氏康を河東・伊豆に屈服させ、信長の父・織田信秀をしばき倒して松平を屈服させた、東海王・今川義元。その義元を尾張すら制していない信長が討ち取ったジャイアントキリング合戦。後年、信長本人が「あれは運ゲーだったわなw(意訳)」と言っているレベル。これにより信長は一気に飛躍、信長26歳の時である。
信秀死後、まだ外患まみれなのに家督相続で喧嘩しはじめた弾正忠織田家。その家臣たちは不安になって浮足立った。そんな中で名古屋南東部の山口教継は信長を裏切り、領土そのままそっくり今川に渡す形で投降してしまう。本拠地の喉元にナイフを突きつけられた形となった信長はこれをどうにかしようと砦を築いて対抗、せっかく寝返らせて奪取した尾張の橋頭保を失うわけにはいかない義元が大軍を率いて西進……というのが大まかな経緯となっている(以前言われていた義元が上洛を見据えていた話は推測に過ぎず、この出兵で織田は倒せても斎藤や六角はまだまだ健在で、義元がストレートに京都を目指そうとしていたとは考えづらい)。
総勢約2万の今川軍は強く、先鋒の朝比奈泰朝や松平元康(のちの徳川家康)などは砦の攻防で佐久間盛重、織田秀敏らを討ち取り、織田勢を追い払って大高城の救援に成功する。この前後、信長は遂に自ら馬回り2000人ほどを率いて出陣、これを見て意気があがった砦防衛軍の佐々政次・千秋四郎らが今川前衛にオラついて反撃を開始するが、残念ながらそんなに甘くはなく佐々も千秋も鎧袖一触され皆殺しにされてしまう。…はじめからこの攻防を一切無視していた信長は、足音がかき消される豪雨の中、かなり後方に離れてのんびりと構えている今川義元の本陣に突撃、事ここに至っての局地戦では手勢同士で兵数差はせいぜい3000人ほど、総大将が総大将を奇襲するラインを超えた異常戦術の効果が多少の人数差を上回り、織田軍は義元の首をあげた。
信じがたき義元討ち取ったりの情報が伝播すると今川軍は退却を始める。頑強に抵抗した岡部元信などもいたが、多くは東方に敗走し、代々織田と今川の係争地である三河勢は身の振り方に迷う衆ばかりとなった。
稲葉山城の戦い(1567年)
今川を下し松平元康を従属させお家騒動も制した信長は、いよいよ父以来の悲願である、嫁の実家美濃の乗っ取りに動き出す。人生盛りだくさんの信長の戦役の中だと割とさっくりと語られる事が多いが、まだまだ尾張一国のみで国力が並みだったこともあって実は苦労しており7年がかりで攻め落としている。これにより富裕な2ヶ国を領した信長は120万石の大大名となり、信玄や謙信と同格の存在となった。
1561年に難敵・斎藤義龍が病死したのを見ると、以後信長は後継者・斎藤龍興と新加納の戦い、堂洞合戦、河野島の戦いと一進一退を繰り広げる。直接対決で負けた合戦も複数あり、龍興は戦場ではそれなりの強敵であったが、謀略では信長が一歩上手であった。竹中半兵衛や美濃三人衆らの離反でガタガタの領国は少しずつ切り取られていった。龍興の本拠・稲葉山を落とした際、ルイス・フロイスによれば信長は敵の旗を偽造するという孔明ばりの計略を用いたという。
なお、秀吉が一夜城を築いた有名な話は一次史料にはない創作であるとの見方が強いが、この7年でせいぜい部隊長クラスだった秀吉が大きく家中での立場を上げた事は確かで、坪内利定らの投降工作など一夜城を除いても功績は多い。
姉川の戦い(1570年)
南近江の六角親子を倒して足利義昭を上洛させ、室町幕府を再興させた信長は、伊勢(三重県)や越前(福井県)へ手を伸ばす。もともと先に義昭をかくまっていた自意識からか室町幕府に従わない越前の朝倉義景を攻めようとした信長に、信じられない報が届いた。ここまで京都への手引きをしてくれた恩があり徳川家康と同格の弟分として厚遇していた妹婿の浅井長政が裏切ったのである(金ヶ崎撤退戦)。ここに織田-徳川 VS 朝倉-浅井という不倶戴天の対立軸が完成した。長政はこの連合に際してもともと絶許関係だった六角とも連携するなど、完全にトリックスターとして動いている。
信長にとってはここで負けたら今までの天下人である細川・大内・三好らと同様に、自分も京都を失陥する可能性の高い土俵際の決戦であった。そのためパワハラで遠方の三河からはるばる徳川軍を琵琶湖北部まで呼び寄せるなど万全を期して、今持てる最大の戦力で当たった。
両軍入り乱れての激戦となり、雇われ戦の徳川軍もよく戦った。榊原康政や磯野員昌ら両軍共に勇姿を見せる武者の活躍があった。おかげで血原、血河などという死体に関する地名が生まれるほどの死屍累々の状況に。結果的には兵数がある程度上回る織田・徳川軍が勝利した。全軍に多数の死傷者が出たが、特に負けると後がないがゆえ死力を尽くした浅井軍は被害甚大で名有り武将が10名単位で戦死。しかし、この時点では(特に朝倉軍には)余力が残っており、以後の信長包囲網において朝倉-浅井は徹底して織田と抗戦していく事になる。
野田・福島の戦い → 志賀の陣(1570年)
上洛後の信長最大の危機とも言える戦役。
京都を追い出され、本圀寺の変も失敗して苦虫を噛んでいた三好三人衆は反撃の機会をうかがっていた。姉川合戦を見ての三好の動きは素早く、軍備していた信長の隙を突いて四国から軍勢を率い、野田・福島(大阪市)に平城を築いて幕府軍(織田軍)の拠点を攻撃し始める。三好勢は雑賀衆や斎藤龍興も絡んだそれなりの大軍となっていたが、信長が到着すると士気を回復した総勢4万の織田軍にさすがに押され始める(なおこの戦は両軍共に傭兵として雑賀衆を起用した戦いとなった)。
この時、仏鐘の音と共に信長最悪の敵である『あの勢力』が遂に参戦。信長の政治によって関所利権や寺社利権を踏みにじられつつあった本願寺顕如は突如織田軍を襲撃した。門徒から巻き上げた銭で大飯食らいの僧侶たちは織田の足軽よりもムキムキで、なおかつテクノロジーと財力を駆使した鉄砲攻勢を仕掛けてくるその姿は、浮世を離れた信仰者にあるまじきバトル坊主であった。
さらに姉川で負けた朝倉・浅井はここぞとばかりに東から畿内へと侵攻、宇佐山城を守る森可成らは討たれ、ここにいたって信長は三好・本願寺軍を前に柴田勝家らを殿として摂津国(大阪湾)からの撤退を決意。京都を狙う朝倉・浅井に対処せざるを得なくなってしまう。大軍のきびすを返した信長に対して、朝倉・浅井は比叡山延暦寺に籠城して京都の北東にドンと居座った。これを志賀の陣と呼ぶ。
この間にも摂津で三好・本願寺が暴れていてにっちもさっちもいかない信長は、比叡山には「ある程度利権を認めてやるから連合軍に味方するな」メール、朝倉には「男なら山でて決戦しようぜ」メールを送るが、形成不利は明白であった。こんな戦況を見た六角義賢は南近江で一向宗を利用して挙兵、本国尾張の近場である伊勢長島では顕如が送り込んだ願証寺がコンバット坊主・下間頼旦を用いて実弟・織田信興を攻め滅ぼし、滝川一益すら適わずに逃げる惨状となった。
もはやどうにもならない信長は負けを認めた。幕府と朝廷という二大絶対権力を泣き落としして、幕政に朝倉の影響力を認める譲歩までして包囲網の主勢力と講和を行う。信長としては負けではあっても最低線を越えない不利講和に持ち込んだため、戦略失敗のダメージを広げない事には成功したが、足利義昭はそんな信長の体たらくを見ていた…。
長島一向一揆(1570~74年)
"包囲網との講和 → 義昭の裏切り → 今度は義昭が首魁となった包囲網との再戦"を続ける中で、最も信長の手を煩わせたのは朝倉・浅井…ではなかった。所詮やつらとは姉川で格付けは済んでおり、各個撃破となればトントン拍子に本拠の一乗谷・小谷を陥落させる事ができた(1573年)のである。目下、面倒な相手は東にいた。すなわち伊勢長島を要塞化して対抗した一向宗どもと、さらに東で徳川家康をいたぶっていた武田信玄である。長島坊主が蜂起した時は志賀の陣で救援に向かえず、部下や親族の多数を見殺しにするしかなかった。
前後して1571年、信長は初回長島征伐を決行し5万の軍勢を動員するも……頑強な抵抗とゲリラ戦法の前になんと何の成果もあげられないで撤退する。これほどの大軍を使って優勢にすらなれなかったのは初めてで、理由としては長島が河川が入り組んだ天然の要害で大量の船がなければ包囲すら難しい事、斎藤龍興や六角旧臣の国人衆が入れ知恵した一向宗の戦術強度が高くいわゆる普通の一向一揆ではなかった事が挙げられる。撤退時、氏家卜全がゲリラ坊主に射殺された。
1573年、朝倉・浅井を滅ぼした信長は長島に捲土重来する。今回はしっかり用意をしてきた…つもりだった。歴戦の将がイイ感じに伊勢の各所を制圧しながら長島に迫ったが、一向宗側に付きたがる漁港人が多い関係でどうにもうまく船が集まらず、籠城への総攻撃は見送る事に。撤退時、またもゲリラ戦術に苦しめられ、林通政らが討ち死に。
1574年、実弟や多数の家臣を長島に失った信長はブチギレていた。この頃になると包囲網が弱まっていた事もあり、動員限界の前代未聞の7万の軍勢を用いて進撃。九鬼嘉隆の大船団を用いて一揆を攻め立てた。陣容はまさに織田オールスターでいないのは留守を守った秀吉ぐらい(とはいえ代理の羽柴秀長はいる)。河は軍船で埋め尽くされ、物量戦術で5つの城を残して完全包囲、兵糧攻めに移る。食料が切れて民間人が飢えてきた城の者を殺さずに他の城に追いやるという戦術で食料消費を早めさせ、遂に最後の長島城は降伏した。しかし信長は許さない。
古来から敵の逃げ場所を失くすのは死を覚悟した相手と戦う事になり非常に危険、そんな事は信長も百も承知だったろうが、この時は怒りが勝っていたのだろう、一向宗の降伏に嘘の受諾をして城を出た彼らに鉄砲を撃ちかけたのである。退路を断たれて死に物狂いとなった餓鬼のような信徒たちは織田信広や織田秀成などの陣に突撃して親族たちは殺されてしまう。これを見た信長は嘆息しながらも、残った民間人2万人を柵で囲んで一人残らず焼き殺した。長島は灰燼と帰した。
長篠の戦い(1575年)
三方ヶ原の戦いで徳川家康(&佐久間信盛ら織田軍)を粉砕した武田信玄。あまり知られていないが普通に織田領にも侵攻しており、岩村城を落とす等している。武田勝頼に代替わりした後も家康は武田にかなわず押され続けており、信長はどこか余裕があるタイミングで自分が出て姉川のような決戦をしかける必要があった。逆に言えばいくら領土を侵されようが余裕がない状況で武田と戦う事は非常に恐れていたようである。甲州兵の強さは有名であり、既に佐久間や水野が大敗している事もあるだろう、敵にワンチャンスあるような事は絶対に避けたい。信長包囲網が弱まり、武田が徳川領に侵食して長篠城を取り囲んでいる今、その機が来た。
諸説ある戦いだが、確実に言える事は
『信長は武田が攻めざるを得ない状況を作ろうとして、それに成功した』
『三段撃ちがあったかは不明だが、織田は数千丁の大量の鉄砲を利用した』
『8時間近く戦っており、簡単に武田が総崩れになったわけではない』
といったところ。
長篠城を囲むために砦を築いた武田は、包囲を砦に任せて前進、設楽原で織田・徳川軍と対峙した。
信長は大軍を巧みに山間に隠し、一部は完全に後方に置く交代要員とする事によって、武田からすると「がっちり陣地構築はしているが攻めかかるリターンが無いほどではない」と誤認させる事に成功したと言われる。さらに酒井忠次の砦への後方奇襲が成功して長篠城を解放し、退路を断つ事に成功した(これは武田からすると合戦中に判明した形となる)。以上の2点により、前に攻めかかるしかないような形成となり、武田は家老級の武将が多数戦死するほどの大損害を受ける事になる。
とはいえ、武田も馬鹿の一つ覚えで突撃していたわけではない。途中で馬場信春が柵を迂回して襲撃したりなど戦略で負けてはいても戦術レベルで織田・徳川を上回ろうと現場行動をしていたようだ。また武田軍は両翼のほうが被害が甚大で大将級は多くが戦死しており、正面からかかった軍勢はむしろ被害が少なく、旧来の騎馬武者が一斉に射殺されているような戦況は合戦の序盤に限られていた可能性がある。いずれにしてもこの合戦で武田への優位を決定づけた信長は、この戦線はある程度徳川に任せきっても維持できるようになり、さらに他方面へ勢力拡大できるようになる。
キーワード
三英傑
三英雄とも言われる。織田信長と、豊臣秀吉、徳川家康と戦国時代、安土桃山時代を経て江戸時代の天下泰平に至る、日本の中世から近世にかけての重要人物としてこの3人が挙げられる。
三名の天下の取り方はそれぞれに個性があり、この三名を比較したものとしては「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」「鳴かぬなら ○○○○○○○ ほととぎす」などの唄も有名。ただしこういった戦後のイメージ談話は、真説・異説にまみれた現代では通用しづらくなってきており、信長も他二人同様、昭和・平成期のステレオタイプなイメージから脱却した語られ方が多くなってきているのは間違いない。
天下布武
1567年に岐阜城に本拠地を移してから使い始めた印文(ハンコの文字)。「天下に武を布(し)く」=天下を武力で支配する、といった意味だと言われているが、ハンコ以外で使われた形跡が見当たらないため、本当の意味は良く分からない(そもそも「天下」を指す範囲は日本全国ではなく畿内の事だという説もある)。「信長は他の大名全員にケンカを売ったというのか」「他の大名に対しては天下布武の印判状(ハンコを押した書状)は出していない」などなど、いまだ議論が続いているネタの一つ。
天下統一
信長は天下統一直前で本能寺の変に没したといわれているが、見方によっては彼は『天下』統一を達成している。
戦国時代の中世から近世にかけての「天下」とは天皇および足利将軍がいる京都と、その周辺地域を主に指しており、そしてこれは信長の直轄勢力圏にすっぽり含まれている。つまり、本能寺の変が起こる前にすでに織田信長は(当時の価値観での)天下を掌握していたのである
官位で見る天下人
また、信長は朝廷からも右大臣の官位を受けており、さらに上記されている通り太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかへの就任も打診されている。平清盛、源頼朝、足利義満などをはじめ、歴代天下人が叙任されたものであり、これは朝廷からも信長が天下人として認められていたことの証拠である。このあたりの官位の重要性については三好長慶の記事の「天下人議論」の項を参考にされたし。
三職推任問題
信長に残されたミステリーのひとつ。信長を「太政大臣」「関白」「征夷大将軍」のどれか希望するものに任じよう(三職推任)という話が持ち上がったが、直後に本能寺の変が起こり、信長自身がどう対応したのかは永遠の謎となってしまった。
詳細は三職推任問題の項を参照。
革命児
既存の常識や価値観などを片っ端からぶっ壊そうとしたと思われがちだが、実際はそういうわけでもない。壊したもの有り、変えたもの有り、そのままにしたもの有り・・・といった感じで、一口には言えないのが実情である。強いて言うなら「それぞれを天下統一のために適切に扱っていた」くらいだろうか?ちなみに朝廷からは中興の祖のように思われていたようである。
第六天魔王
1573年、武田信玄が同盟を破棄して攻め込んできた際、信玄は一通の書状を信長に送りつけてきた。これに対し、信長も信玄の書状を送り返した。この書状に使われていたという署名が「第六天魔王 信長」。ちなみに信玄の方は「天台座主沙門信玄」と署名していたという。
・・・と当時来日していたキリスト教宣教師ルイス・フロイスが書き留めているが、この2つの書状は実在が確認できず、内容も全く不明。よって、こう名乗った信長の意図も推測するしかない。
字面のインパクトが凄いためか、創作では信長を表す単語として多用される。
上総介
信長が若いときに使用していた名乗り。『介』とは律令制において朝廷から派遣される分国の次官級の役職の事。上総介だと上総国の次官であるということになる。他の大名や武将の名乗りによくある「○○守」の『守』も分国の長官のことを指す。
ちなみにこの名乗りは朝廷から正式に与えられたものではなく、自称である。この時代では各地の武将が役職を勝手に名乗ることはよくあった。また、ごく初期には「上総守」を名乗った事もある。が、上総国は特例で守が存在しない国だった[2]。つまり信長は存在しない役職を名乗っていたわけで、上総守の使用は短期間ですぐやめている。
使用していたのが若い時期ということもあり、ある意味第六天魔王以上に信長の黒歴史である。
その他
恐ろしげな異名、苛烈な逸話で知られる信長だが、人間らしい話も多く伝わっている。
信長が岐阜と京都を頻繁に行き来していた頃、美濃と近江の国境の山中という場所に、体が不自由な乞食がいた。雨を凌ぐ術もなく濡れ鼠になっている男を見た信長は、土地の者に尋ねる。
土地の者は「あれは山中の猿と呼ばれております。かつて先祖が常盤御前(源義経の母)を殺した為、天罰として代々あのように体が不自由なのです」と答えた。これを哀れんだ信長は、次に山中を訪れた際、土地の者を集めて木綿20反を与え、こう言った。
「これをそなたらに与えるので、半分を売った金で山中の猿の為に家を作ってやってほしい。米や麦が実ったら、そなたらの負担にならない程度に少しずつ与え、飢え死にしないように面倒を見てやってくれ。そうしてくれたら自分はとても嬉しく思う」
これを聞いた山中の猿はもちろん、土地の者や信長の家臣らも等しく感激し、涙を流さぬ者はいなかった。
またある時、出陣の為に領内を通りかかったおり、農民が道端でいびきをかいて寝こけていた。
家臣が「けしからん」と切り捨てようとしたのを信長は制し、「兵は戦いが仕事、農民は土を耕すのが仕事だ。ああして土の上で眠っているのは良い事だし、俺は好きだ」と笑ったという。
安土城でも庶民との触れ合いを楽しみ、自ら茶を点て、踊りつかれた人の汗を拭いてねぎらったという話が伝えられている。
また目をかけていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の妻・ねね(高台院)に対し、次のような手紙を送っている。
実際にはかな文字が多く、ねねでも読みやすいように配慮した内容となっている。
仰せの如く 今度はこの地へはじめて越し 見参に入り 祝着に候
殊に土産色々美しさ 中々目にも余まり 筆にも尽くし難く候
祝儀は仮に この方よりも何やらんと思い候はば その方より見事なる物 持たせ候間
別に心さしなくのまま まずまずこの度はとどめ参らせ候
重ねて 参りの時 それに従うべく候就中 それの見目ぶり 形まで いつぞや見参らせ候折節よりは 十の物廿ほども見上げ候。
藤吉郎 連々不足の旨申のよし 言語同断 曲事候か
何方を相尋ね候共 それさまの程のは 又二度 かの禿ねずみ 相求め難き間これ以後は 身持ちを良う快になし いかにもかみさまなりに重々しく悋気などに立ち入り候ては然るべからず候
ただし 女の役にて候間 申すものと申さぬなりにもてなし 然るべく候尚 文体に羽柴には意見 請い願うものなり
又々 かしく
藤吉郎 女ども
のぶ(意訳)
このたび、安土に初めて訪ねてきてくれて嬉しく思う。
更に土産の数々も美しく見事で、筆では到底表せない程だ。
返礼に私の方からも何をつかわそうかと思ったが、そなたの土産があまりにも見事で、一体何をお返しすれば良いか思いつかなかった。
そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。そなたの美しさも、前に会った時よりも、十のものが二十になるほど美しくなっている。
藤吉郎(秀吉)が何やら不足を申しているとの事だが、言語道断、けしからんことだ。
どこを探しても、あのハゲネズミ(秀吉)はそなたほどの女性を二度と見つける事は出来ないだろう。これよりは身持ちを良くし、奥方らしく堂々と振る舞い、やきもちなど妬かぬようしなさい。
ただし女房のつとめとして、言いたい事は全部言うのではなく、ある程度に留めておくと良いだろう。
ゲームの中の信長
信長の野望
言うまでも無く、公式でチート。野望は流石の100。ただし、能力値が総合1位になるのは実は創造が初めてであり[3]、天下三英傑にして同作主役という地位にありながら、見ようによってはなかなか不遇な人物であった。特に嵐世記では統率75と凄まじく能力を下げられている。流石に評価が是正され、元の地位に戻っていった。とはいえ、特技面や戦闘バランスでも恵まれており、最強の一角であることは間違いないだろう。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 93 | 政治 | 99 | 魅力 | 98 | 野望 | 100 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 87 | 政治 | 95 | 魅力 | 97 | 野望 | 100 | 教養 | 80 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 97 | 戦闘 | 89 | 智謀 | 84 | 政治 | 96 | 野望 | 100 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 190(A) | 智才 | 192(A) | 政才 | 198(A) | 魅力 | 98 | 野望 | 100 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 94 | 智謀 | 95 | 政治 | 98 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 94 | 戦闘 | 70 | 智謀 | 93 | 政治 | 98 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 75 | 智謀 | 85 | 政治 | 89 | 野望 | 100 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 82 | 知略 | 88 | 政治 | 90 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 82 | 知略 | 86 | 政治 | 90 | 教養 | 76 | ||||||||
革新 | 統率 | 92 | 武勇 | 89 | 知略 | 96 | 政治 | 105 | ||||||||
天道 | 統率 | 100 | 武勇 | 89 | 知略 | 94 | 政治 | 97 | ||||||||
創造 | 統率 | 99 | 武勇 | 87 | 知略 | 94 | 政治 | 100 | ||||||||
大志 | 統率 | 99 | 武勇 | 83 | 知略 | 94 | 内政 | 100 | 外政 | 86 | ||||||
新生 | 統率 | 99 | 武勇 | 88 | 知略 | 95 | 政務 | 100 |
戦国大戦
「俺達で、新たな世を作るのだ!」
戦国大戦での信長は五枚存在するが、四枚のみ紹介する(残り一枚はスターター専用のため割愛)。一枚目は1560 尾張の風雲児の副題通り若かりしころの姿。高武力・高統率な織田家の顔であり、計略の「天下布武」は各軍の大名采配で最もスタンダードな計略と言えるだろう。織田家の武力と統率を上げるため、自軍部隊の制圧力が大幅に上がる。
「屁のつっぱりはいらんですよ!」
もう一枚は、戦国傾奇(漫画とのコラボ枠)で登場したどう見てもキン肉マンな信長。
コスト3.5で武力9統率2(肉のゴロ合わせとのこと)と一見寂しいスペックに見えるが、特筆すべきはその特技「肉」。
「気合」とは比べ物にならない兵力回復速度により驚異的なしぶとさを持ち、まさに要塞と言えるレベル。計略「火事場のクソ力」は兵力が少ない程武力が上がり(ちなみに最大値は29とこちらも肉である)、発動中は異様な硬さとなり弓や瞬間的に兵力を減らせる計略でもない限り撃破はほぼ不可能なレベルとなる。
「鉄砲隊、三段に構えよ!」
そして舞台は1570年に移り、信長包囲網の時代に追加された新カードの彼は、まさに「魔王」と呼ばれるに相応しい貫禄を持った風体になった。計略の「三段撃ち」は、長篠の戦いでの逸話の通り、計略中は味方の武力が上がると共に鉄砲隊のリロード速度が大幅に向上し、三発目を撃ち終わってすぐに装填が完了する有様である。まさに相手に反撃を与えずに蜂の巣にすることが可能な計略といえよう。
「紅蓮の炎に包まれるは貴様か、はたして俺か……!」
ver.2.0で遂に本能寺の変の彼が参戦した。イラストはとてもこれから自刃するとは思えない程のすさまじい迫力で、歴代信長の中でも最も魔王らしいイラストとなっている。
スペックは武力11統率11に制圧魅力と全武将中最高クラスのスペックで、コスト4に加えて槍兵という組み合わせ故に全武将中最強の攻城攻撃力を持つ。計略の「是非に及ばず」は範囲内の味方の武力と統率を大幅に上げる代わりに効果時間中徐々に統率力が低下するというもので、統率が一定以下になると撤退する。消費士気8という重さの割に武力上昇地は一般的な采配と同レベルで派手さには欠けるものの、効果は撤退するまで続くため計略の効果時間は長く、扱いは難しいが強力な計略である。
戦国無双シリーズ
初代からPCとして参戦。身長190cm(声優:小杉十郎太)
武器は紫色の妖気をまとった西洋風の刀で、振るたびに「ブン」という音が鳴る。
アクションは特殊技タイプ。この特殊技を使うと、チャージ技が強化されたり、バリアが張られたりする。
能力値はすべての能力値がほぼ平均以上という、信長らしい値。
少しトリッキーな動きをして攻撃するスタイルなので、初心者が使うと少し難しいが、慣れるとめちゃくちゃ強い。
見た目はどの作品でも黒を基調とした西洋風の鎧を着ており、黒い羽やオーラが体から出ている。…お前本当に人間かよ…
どの作品でも、上の記述にもあるように革命的な思想をもっており、既存の道徳概念や思想を否定していく。
それゆえに苛烈な性格をしており、カリスマ性と哲学的な考え方をもった人物である。
しかしながら、ナンバリングによって少し性格が違う。1ではかなり冷酷で「魔王」といった性格。2では少し優しくなり、武士として「死」を受け入れている人間を嫌う性格。3では時代を進めることを第一に考えている。4では1のように苛烈で冷酷だが、「己の決意を大事にする奴は最後までがんばれ」という少し変わったタイプの性格。共通しているのは、どれも普通の人間には理解することが難しい性格をしているということである。
しかしながら、家臣たちには恐れられつつも、信頼はされている。
史実通り、秀吉を「さる」、元親を「鳥なき島の蝙蝠」と呼んでいるシーンもある。
戦国BASARA
織田信長(戦国BASARA)の記事を参照
関連動画
関連項目
織田信長を題材とした作品、及び、メインキャラクターとして登場する作品
- 信長の野望
- 太閤立志伝
- 戦国無双/無双OROCHI
- 戦国BASARA
- 戦国大戦
- 信長 KING OF ZIPANGU (1992年度大河ドラマ)
- 戦国鍋TV
- 内閣総理大臣 織田信長
- 織田信奈の野望
- ノブナガン
- ノブナガ・ザ・フール
- 信長のシェフ
- 信長の忍び
- 信長協奏曲
- ドリフターズ(漫画)
- コハエース / 帝都聖杯奇譚
その他多数。「信長枠」の記事も参照。
脚注
- *余談になるが、信長は非公式に太政大臣を叙任されていたという説が根強いようである。秀吉書状、近衛前久辞任などが根拠としてあげられている
- *正確には皇族のみが「守」に任命される国(親王任国)。ほかに常陸・上野も同様。
- *多くの作品での総合能力値1位は武田信玄。しかし一方で信玄は各能力でトップに立つ事は少ない
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