織田信長単語

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織田信長」(おだ・のぶなが 1534 ~ 1582)とは、日本戦国時代の武将・大名。説明不要の戦国時代下人であり、三英雄の一人。「第六天魔王」にして「覇王」な「尾のうつけ」である。

生涯

守護である斯波氏に仕える清州織田氏……にさらに仕える清州三奉行である織田信秀の子として生まれる。つまり信長実家格は"そこそこ"程度だったが、祖・信秀が港交易で大な利益を稼いでいたため本家からも一段と頼りにされており、その分妬まれてもいて、と他奉行間の対立も絶えなかった。

幼少の頃は行儀が悪く、シンプルに言えばド不良だったため「大うつけ」と呼ばれた。一次史料級にも様々なエピソードがあり、年長の言う事を一切聞かず自分の考えで動きまくる扱いづらい若者であった事は確かなようである。ただ同年代の不良仲間には気に入られていたようで、信長初期の旗本衆にはこの頃の悪友が多数いる。

・信秀は港利権で稼いだ財から本家から頼りとされるうちに軍事的な実権を握り、晩年は隣斎藤道三平家(徳川家康・祖)との戦いに明け暮れたが、駿河の今川義元が本格介入してきた辺りから行きが怪しくなる。信秀は1549年に今川太原雪斎小豆坂で大負けして劣勢が確定、自らの終わりも悟ったのであろう、斎藤道三である斎藤氏(濃姫/帰蝶)を子・信長の正室に迎えてなんとか美濃-尾の同盟を固めた後、すぐに病した。

信長は「実家を敵視している戚2」「織田信勝との後継者争い」「外敵に、その後ろに明らかに敵う相手ではない今川」という極めてハードモードな状態で督を継承した。にもにも身内との抗争を続ける信長だったが、頼みの同盟相手である義斎藤道三がその息子斎藤義龍に敗死させられ、斎藤家織田と断交。こうなるともはや近場の権者ほとんどが敵であり、一つボタンをかけ間違ったら滅亡待ったなしのここからすべてをらげた信長がどれほどの男だったのかは推して知るべしである。

信長は、織田信友、織田信清織田信勝といった尾内抗争を経て、隣の大大名今川義元桶狭間の戦いで破り、義元を討ち取った。その後も戦い続け、尾定を成し遂げた。つまり…勘違いされやすいが今川に勝ってからようやく尾定している。この時点で、信長や祖えた。

今川臣であった徳川家康との同盟を経て、信長斎藤義龍美濃攻略へと向かう。当時の美濃信長の他に武田信玄などもその勢を伸ばさんとしていたが、織田信長は7年かけて大美濃を攻め取る。中の不穏分子も取り払い、120万石を領する日ノ本有数の大大名となった。

一方、応仁の乱以降まったく定まる事のない日本史上最悪の情勢といっていい当時の中央(京都周辺)では、将軍足利義輝を弑逆した三好三人衆&筒井順慶VS三好義継&松永久秀といった絵図での抗争が続けられていた。稲葉を「岐阜」と名し、地方覇者となった信長は義足利義昭依頼を受けて上。北近江浅井長政(または従妹)とされるお市の方がせ、その麾下に加えた。中、南近江六角義賢を破り、見事足利義昭を上に成功させて第十五代将軍に擁立する。この際、大満足の義昭から管領や副将軍などを打診されたが、信長は断ったとされる。京都・山を追われた三好三人衆を中心に、斎藤氏の忘れ形見である斎藤龍興六角氏らを交えて義昭-信長ラインに対する抵抗が続けられるが、信長り強く対処した。また、伊勢側にも滝川一益らを使って勢を拡大し、北畠氏を屈させて一族を殺している。信長は、ここまでは破の勢いで日ノ本の中央を席捲していた…。

しかし…あくまで室町幕府回天をモットーとして動く義昭と信長は、次第に仲違いしていく。幕府の軍として次は朝倉義景を攻め滅ぼそうと動いていた信長のもとに、婿浅井長政の離反の報が届いた。信長自ら「虚実あるべし」と述べたとされるほど信じがたい話だったとされるが、ともあれ、京都と本拠地美濃・尾を寸断する場所となる近江浅井長政が背いたのは痛恨の裏切りであった。浅井朝倉連合の戦いで家康の助もあり破ったが、直後の三好三人衆との争いで沈黙を守ってきた巨大な宗教の総本山石山本願寺が敵方に参戦してしまう。しかもしか浅井朝倉が再度軍をまとめて近江坂本に侵攻してきた上、比叡山がそれを支援して連合軍はどっしりと志賀に居座り、織田は合戦して勝つ事すらできない状態になる。尾伊勢では長島一向一揆が起こって人衆が同調、実織田一向宗自害に追い込まれた。同時期、尾の東側では今まで同盟していたはずの甲斐の虎武田信玄が西上の動きを見せていた。これらの背後には仲違いした義昭のがちらつく。…後世に信長包囲網と呼ばれる、苦の戦いがはじまった。

配下武将の活躍もあり、結果的には信長はこれら抵抗のほとんどを各個撃破していく。しかし、尽蔵の戦意と圧倒的な財を誇り頑強に抵抗・身内が幾人も殺されてしまった本願寺相手や、一番手臣である佐久間氏を援軍させたのにも関わらず防波徳川家康三方ヶ原で粉砕されてしまった武田には特に苦労し、一歩間違えれば…の連続だったことは想像に難くない。また抵抗を各個撃破し続けるうちにその外側の勢が参戦…という流れを繰り返しており、後半は毛利輝元上杉謙信長宗我部元親などと敵対して、信長天皇に泣きついてまで包囲網側と和した当初ほどの危機感はないにせよ、結局のところ信長包囲網信長が死ぬまで継続した。

1575年、信長徳川家康長篠の戦い武田勝頼を撃破。精強武田軍を数多討取り、多数の武田重臣が戦死した。武田の資料と言われる甲陽軍鑑では「長篠で勇士100人中98人が死んだ」とまで言われるほどであった。翌年は天王寺において3000の兵で15000の本願勢を撃破。内政面では安土城を築き、その後も荒木村重松永久秀別所長治武田勝頼といった多くの勢を滅ぼした。

1582年、信長朝廷から太政大臣、関白征夷大将軍のいずれかに就任するように要請を受けた。既に織田信長の直轄勢日本の過半を占め、東北九州などの遠隔地でも信長と通じ、そのを受けた勢を含めれば日本のほぼ全てが彼の勢下にあった。もはや織田信長の下は定まり、新しい時代が来ると皆が思った。織田信長へ徹底抗戦を続ける上杉景勝も「冥土の土産」と述べるほどであった。だが、織田信長は朝廷の要請を保留[1]

そして、信長の返答が来ることはなかった。1582年6月2日の本寺にて、明智光秀の謀叛にあい自息子である織田信忠も自した。その後、織田は後継者争いに際して重臣であった羽柴秀吉柴田勝家の介入を否定する事ができず、結果的には秀吉に勢圏を簒奪される形となったが、織田信雄らによって命脈を保ち、江戸時代ひいては近現代までその子孫が続いている。

織田信長がやり残した新時代への体制構築は、その後豊臣秀吉徳川家康へと受け継がれた。

ニコニコ動画では、織田信長を直接扱った動画いくつかと織田信長を題材とした作品(ゲームドラマ、…)をもとにした動画投稿されている。

信長の主な合戦

稲生の戦い (1556年)

織田信勝(信行)との督争い合戦。柴田勝家林秀貞家老級の武将が信長を裏切って側に味方し、兵数700 VS 1700というかなりの劣勢で実際に信長方の名有り武将が何人か死んだが、信長によって双方には士気の差があり、勝利した。
利権を受け継いだのはあくまで信長であり、二人の資には差があったために信勝直属の手勢は少なかったとされ、実質的には信長VS信勝を担いだ家老どもの戦いとも言える。
それだけに「実はうつけなどではなく名将級の男気を持っていた」信長の一面を見た勝らは途中で戦意喪失し(本気で内紛しても斎藤今川に滅ぼされるだけ)、信長を認めた時点で敵側の動機が薄くなり、信長ほど手勢を持たない信勝が戦いを続ける事は難しくなったというのが実情のようだ。

いずれにせよこれで実家督争いの権は信長が握った。とはいえあくまで実家でイニシアティブを握っただけで、本家や他の分との争いはまだまだ続き、浮野の戦い(1558年)などに繋がる。

桶狭間の戦い(1560年)

北条氏康を河東・伊豆に屈させ、信長織田信秀をしばき倒してを屈させた、東海王・今川義元。その義元を尾すら制していない信長討ち取ったジャイアントキリング合戦。後年、信長本人が「あれは運ゲーだったわなw(意訳)」と言っているレベル。これにより信長一気に飛躍、信長26歳の時である。

信秀死後、まだ外患まみれなのに相続喧嘩しはじめた弾正忠織田。その臣たちは不安になって浮足立った。そんな中で名古屋南東部の山口教継は信長を裏切り、領土そのままそっくり今川に渡す形で投降してしまう。本拠地の喉元にナイフを突きつけられた形となった信長はこれをどうにかしようと砦を築いて対抗、せっかく寝返らせて奪取した尾橋頭保を失うわけにはいかない義元が大軍を率いて西進……というのが大まかな経緯となっている(以前言われていた義元が上を見据えていた話は推測に過ぎず、この出兵で織田は倒せても斎藤六角はまだまだ健在で、義元がストレート京都そうとしていたとは考えづらい)。

総勢約2万の今川軍は強く、先鋒の朝比奈泰朝松平元康(のちの徳川家康)などは砦の攻防で佐久間盛重、織田秀敏らを討ち取り、織田勢を追い払って大高の救援に成功する。この前後、信長は遂に自ら回り2000人ほどを率いて出、これを見て意気があがった砦防衛軍の佐々政次・千秋四郎らが今川前衛にオラついて反撃を開始するが、残念ながらそんなに甘くはなく佐々も千秋鎧袖一触され皆殺しにされてしまう。…はじめからこの攻防を一切無視していた信長は、足音がかき消される豪雨の中、かなり後方に離れてのんびりと構えている今川義元の本に突撃、事ここに至っての局地戦では手勢同士で兵数差はせいぜい3000人ほど、総大将が総大将を奇襲するラインえた異常戦術の効果が多少の人数差を上回り、織田軍は義元の首をあげた。

信じがたき義元討ち取ったりの情報が伝播すると今川軍は退却を始める。頑強に抵抗した岡部元信などもいたが、多くは東方に敗走し、代々織田今川の係争地である三河勢は身の振り方に迷う衆ばかりとなった。

稲葉山城の戦い(1567年)

今川を下し松平元康を従属させお家騒動も制した信長は、いよいよ以来の悲願である、実家美濃乗っ取りに動き出す。人生盛りだくさんの信長の戦役の中だと割とさっくりとられる事が多いが、まだまだ尾のみでが並みだったこともあって実は苦労しており7年がかりで攻め落としている。これにより富裕な2ヶを領した信長120万石の大大名となり、信玄や謙信と同格の存在となった。

1561年に難敵・斎藤義龍が病死したのを見ると、以後信長は後継者・斎藤龍興と新加納の戦い、堂洞合戦、河野の戦いと一進一退を繰り広げる。直接対決で負けた合戦も複数あり、戦場ではそれなりの強敵であったが、謀略では信長が一歩上手であった。竹中半兵衛美濃三人衆らの離反でガタガタの領は少しずつ切り取られていった。の本拠・稲葉山を落とした際、ルイス・フロイスによれば信長は敵の旗を偽造するという孔明ばりの計略を用いたという。

なお、秀吉一夜を築いた有名な話は一次史料にはない創作であるとの見方が強いが、この7年でせいぜい部隊クラスだった秀吉が大きく中での立場を上げた事は確かで、内利定らの投降工作など一夜を除いても功績は多い。

姉川の戦い(1570年)

近江六角子を倒して足利義昭を上させ、室町幕府を再させた信長は、伊勢三重県)や越前福井県)へ手を伸ばす。もともと先に義昭をかくまっていた自意識からか室町幕府に従わない越前朝倉義景を攻めようとした信長に、信じられない報が届いた。ここまで京都への手引きをしてくれた恩があり徳川家康と同格の分として厚遇していた婿浅井長政が裏切ったのである(金ヶ崎撤退戦)。ここに織田-徳 VS 朝倉-浅井という不倶戴天の対立軸が完成した。長政はこの連合に際してもともと絶許関係だった六角とも連携するなど、全にトリックスターとして動いている。

信長にとってはここで負けたら今までの下人である細川大内三好らと同様に、自分も京都を失陥する可性の高い土俵際の決戦であった。そのためパワハラ遠方の三河からはるばる徳軍を琵琶湖北部まで呼び寄せるなど万全を期して、今持てる最大の戦で当たった。

両軍入り乱れての戦となり、雇われ戦の徳軍もよく戦った。榊原康政磯野員昌ら両軍共に勇姿を見せる武者の活躍があった。おかげで血原、血河などという死体に関する地名が生まれるほどの死屍累々の状況に。結果的には兵数がある程度上回る織田・徳軍が勝利した。全軍に多数の死傷者が出たが、特に負けると後がないがゆえ死を尽くした浅井軍は被害甚大で名有り武将が10名単位で戦死。しかし、この時点では(特に朝倉軍には)余が残っており、以後の信長包囲網において朝倉-浅井底して織田と抗戦していく事になる。

野田・福島の戦い → 志賀の陣(1570年)

後の信長最大の危機とも言える戦役。
京都を追い出され、本寺の変も失敗して苦を噛んでいた三好三人衆は反撃の機会をうかがっていた。川合戦を見ての三好の動きは素く、軍備していた信長の隙を突いて四国から軍勢を率い、野田福島大阪市)にを築いて幕府軍(織田軍)の拠点を攻撃し始める。三好勢は雑賀衆や斎藤龍興も絡んだそれなりの大軍となっていたが、信長が到着すると士気を回復した総勢4万の織田軍にさすがに押され始める(なおこの戦は両軍共に傭兵として雑賀衆を起用した戦いとなった)。

この時、鐘の音と共に信長最悪の敵である『あの勢』が遂に参戦信長政治によって関所利権や寺社利権を踏みにじられつつあった本願寺顕如は突如織田軍を襲撃した。門徒から巻き上げた銭で大飯食らいの僧侶たちは織田足軽よりもムキムキで、なおかつテクノロジーと財を駆使した攻勢を仕掛けてくるその姿は、浮世を離れた信仰者にあるまじきバトル坊主であった。

さらにで負けた朝倉浅井はここぞとばかりに東から畿内へと侵攻、佐山を守る森可成らは討たれ、ここにいたって信長三好・本願寺軍を前に柴田勝家らを殿として摂津大阪湾)からの撤退を決意。京都を狙う朝倉浅井に対処せざるを得なくなってしまう。大軍のきびすを返した信長に対して、朝倉浅井比叡延暦寺に籠して京都の北東にドンと居座った。これを志賀と呼ぶ。

この間にも摂津三好・本願寺が暴れていてにっちもさっちもいかない信長は、比叡山には「ある程度利権を認めてやるから連合軍に味方するな」メール朝倉には「男なら山でて決戦しようぜ」メールを送るが、形成不利は明であった。こんな戦況を見た六角義賢は南近江一向宗を利用して挙兵、本の近場である伊勢長島では顕如が送り込んだ願寺がコンバット坊主・下間頼旦を用いて実織田を攻め滅ぼし、滝川一益すら適わずに逃げる惨状となった。

もはやどうにもならない信長は負けを認めた。幕府と朝廷という二大絶対権を泣き落としして、幕政に朝倉を認める譲歩までして包囲網と講和を行う。信長としては負けではあっても最低線を越えない不利講和に持ち込んだため、戦略失敗のダメージを広げない事には成功したが、足利義昭はそんな信長の体たらくを見ていた…。

長島一向一揆(1570~74年)

"包囲網との講和 → 義昭の裏切り → 今度は義昭が首となった包囲網との再戦"を続ける中で、最も信長の手を煩わせたのは朝倉浅井…ではなかった。所詮やつらとはで格付けは済んでおり、各個撃破となればトントン拍子に本拠の一乗小谷を陥落させる事ができた(1573年)のである。下、面倒な相手は東にいた。すなわち伊勢長島を要塞化して対抗した一向宗どもと、さらに東で徳川家康をいたぶっていた武田信玄である。長島坊主起した時は志賀で救援に向かえず、部下や族の多数を見殺しにするしかなかった。

前後して1571年、信長は初回長島征伐を決行し5万の軍勢を動員するも……頑強な抵抗ゲリラ戦法の前になんと何の成果もあげられないで撤退する。これほどの大軍を使って優勢にすらなれなかったのは初めてで、理由としては長島河川が入り組んだ天然の要大量のがなければ包囲すら難しい事、斎藤龍興六角旧臣の人衆が入れ知恵した一向宗の戦術強度が高くいわゆる普通一向一揆ではなかった事が挙げられる。撤退時、氏家卜全ゲリラ坊主に射殺された。

1573年、朝倉浅井を滅ぼした信長長島に捲土重来する。今回はしっかり用意をしてきた…つもりだった。歴戦の将がイイ感じに伊勢の各所を制圧しながら長島に迫ったが、一向宗側に付きたがる漁港人が多い関係でどうにもうまくが集まらず、籠への総攻撃は見送る事に。撤退時、またもゲリラ戦術に苦しめられ、通政らが討ち死に。

1574年、実や多数の臣を長島に失った信長ブチギレていた。この頃になると包囲網が弱まっていた事もあり、動員限界の前代未聞の7万の軍勢を用いて進撃。九鬼嘉隆の大団を用いて一を攻め立てた。容はまさに織田オールスターでいないのは留守を守った秀吉ぐらい(とはいえ代理の羽柴秀長はいる)。河は軍で埋め尽くされ、物量戦術で5つのを残して全包囲、兵糧攻めに移る。食料が切れて民間人が飢えてきたの者を殺さずに他のに追いやるという戦術で食料消費をめさせ、遂に最後の長島は降した。しかし信長は許さない

古来から敵の逃げ場所を失くすのは死を覚悟した相手と戦う事になり非常に危険、そんな事は信長も承知だったろうが、この時は怒りが勝っていたのだろう、一向宗の降の受諾をしてを出た彼らにを撃ちかけたのである。退路を断たれて死に物狂いとなった餓のような信徒たちは織田信広や織田秀成などのに突撃して族たちは殺されてしまう。これを見た信長は嘆息しながらも、残った民間人2万人を柵で囲んで一人残らず焼き殺した。長島燼と帰した。

長篠の戦い(1575年)

三方ヶ原の戦い徳川家康(&佐久間信盛織田軍)を粉砕した武田信玄。あまり知られていないが普通織田領にも侵攻しており、岩村を落とす等している。武田勝頼代替わりした後も家康武田にかなわず押され続けており、信長はどこか余裕があるタイミングで自分が出てのような決戦をしかける必要があった。逆に言えばいくら領土を侵されようが余裕がない状況で武田と戦う事は非常に恐れていたようである。甲州兵の強さは有名であり、既に佐久間水野が大敗している事もあるだろう、敵にワンチャンスあるような事は絶対に避けたい。信長包囲網が弱まり、武田が徳領に侵食して長篠を取り囲んでいる今、その機が来た。

諸説ある戦いだが、確実に言える事は
信長武田が攻めざるを得ない状況を作ろうとして、それに成功した』
『三段撃ちがあったかは不明だが、織田は数千丁の大量のを利用した』
『8時間近く戦っており、簡単に武田が総崩れになったわけではない』
といったところ。

長篠を囲むために砦を築いた武田は、包囲を砦に任せて前進、設楽原で織田・徳軍と対峙した。
信長は大軍を巧みに山間に隠し、一部は全に後方に置く交代要員とする事によって、武田からすると「がっちり地構築はしているが攻めかかるリターンいほどではない」と誤認させる事に成功したと言われる。さらに酒井忠次の砦への後方奇襲が成功して長篠解放し、退路を断つ事に成功した(これは武田からすると合戦中に判明した形となる)。以上の2点により、前に攻めかかるしかないような形成となり、武田家老級の武将が多数戦死するほどの大損を受ける事になる。

とはいえ、武田馬鹿の一つ覚えで突撃していたわけではない。途中で馬場信春が柵を回して襲撃したりなど戦略で負けてはいても戦術レベル織田・徳を上回ろうと現場行動をしていたようだ。また武田軍は両のほうが被害が甚大で大将級は多くが戦死しており、正面からかかった軍勢はむしろ被害が少なく、旧来の騎武者が一斉に射殺されているような戦況は合戦の序盤に限られていた可性がある。いずれにしてもこの合戦で武田への優位を決定づけた信長は、この戦線はある程度徳に任せきっても維持できるようになり、さらに他方面へ勢拡大できるようになる。

キーワード

三英傑

英雄とも言われる。織田信長と、豊臣秀吉徳川家康戦国時代安土桃山時代を経て江戸時代下泰に至る、日本中世から近世にかけての重要人物としてこの3人が挙げられる。

三名の下の取り方はそれぞれに個性があり、この三名を較したものとしては「織田がつき 羽がこねし 座して喰らふは 徳の」「鳴かぬなら ○○○○○○○ ほととぎす」などの唄も有名。ただしこういった戦後イメージ談話は、説・異説にまみれた現代では通用しづらくなってきており、信長も他二人同様、昭和平成期のステレオタイプイメージから脱却したられ方が多くなってきているのは間違いない。

天下布武

1567年に岐阜に本拠地を移してから使い始めた印文ハンコ文字)。「下に武を布(し)く」=下を武で支配する、といった意味だと言われているが、ハンコ以外で使われた形跡が見当たらないため、本当の意味は良く分からない(そもそも「下」をす範囲は日本ではなく畿内の事だという説もある)。「信長は他の大名全員ケンカを売ったというのか」「他の大名に対しては下布武の印判状(ハンコを押した書状)は出していない」などなど、いまだ議論が続いているネタの一つ。

創作上では信長徴とされることが多い。

天下統一

信長天下統一直前で本能寺の変したといわれているが、見方によっては彼は『下』統一を達成している。

戦国時代中世から近世にかけての「下」とは天皇および足利将軍がいる京都と、その周辺地域しており、そしてこれは信長の直轄勢圏にすっぽり含まれている。つまり、本能寺の変が起こる前にすでに織田信長は(当時の価値観での)握していたのである

官位で見る天下人

また、信長朝廷からも右大臣の官位を受けており、さらに上記されている通り太政大臣・関白征夷大将軍のいずれかへの就任も打診されている。平清盛源頼朝足利義満などをはじめ、歴代下人が叙任されたものであり、これは朝廷からも信長下人として認められていたことの拠である。このあたりの官位の重要性については三好長慶の記事の「天下人議論」の項を参考にされたし。

三職推任問題

信長に残されたミステリーのひとつ。信長「太政大臣」「関白」「征夷大将軍のどれか希望するものに任じよう(三職推任)という話が持ち上がったが、直後に本能寺の変が起こり、信長自身がどう対応したのかは永遠のとなってしまった。

詳細は三職推任問題の項を参照。

革命児

既存の常識価値観などを片っ端からぶっ壊そうとしたと思われがちだが、実際はそういうわけでもない。壊したもの有り、変えたもの有り、そのままにしたもの有り・・・といった感じで、一口には言えないのが実情である。強いて言うなら「それぞれを天下統一のために適切に扱っていた」くらいだろうか?ちなみに朝廷からは中の祖のように思われていたようである。

第六天魔王

1573年、武田信玄が同盟を破棄して攻め込んできた際、信玄は一通の書状を信長に送りつけてきた。これに対し、信長も信玄の書状を送り返した。この書状に使われていたという署名第六天魔王 信長」。ちなみに信玄の方は「台座沙門信玄」と署名していたという。

・・・と当時来日していたキリスト教教師ルイス・フロイスが書き留めているが、この2つの書状は実在が確認できず、内容も全く不明。よって、こう名乗った信長の意図も推測するしかない。

字面のインパクトが凄いためか、創作では信長を表す単として多用される。

上総介

信長が若いときに使用していた名乗り。『介』とは制において朝廷から派遣される分の次官級の役職の事。上総介だと上総の次官であるということになる。他の大名や武将の名乗りによくある「○○守」の『守』も分の長官のことをす。

ちなみにこの名乗り朝廷から正式に与えられたものではなく、自称である。この時代では各地の武将が役職を勝手に名乗ることはよくあった。また、ごく初期には「上総」を名乗った事もある。が、上総は特例で守が存在しないだった[2]。つまり信長は存在しない役職を名乗っていたわけで、上総守の使用は短期間ですぐやめている。

使用していたのが若い時期ということもあり、ある意味第六天魔王以上に信長黒歴史である。

その他

恐ろしげな異名、苛な逸話で知られる信長だが、人間らしい話も多く伝わっている。

信長岐阜京都を頻繁に行き来していた頃、美濃近江山中という場所に、体が不自由乞食がいた。ぐ術もなく濡れになっている男を見た信長は、土地の者に尋ねる。
土地の者は「あれは山中と呼ばれております。かつて先祖が常盤御前(源義経)を殺した為、天罰として代々あのように体が不自由なのです」と答えた。これを哀れんだ信長は、次に山中を訪れた際、土地の者を集めて木綿20反を与え、こう言った。
「これをそなたらに与えるので、半分を売った山中の為にを作ってやってほしい。や麦が実ったら、そなたらの負担にならない程度に少しずつ与え、飢え死にしないように面倒を見てやってくれ。そうしてくれたら自分はとても嬉しく思う」
これを聞いた山中はもちろん、土地の者や信長臣らも等しく感し、を流さぬ者はいなかった。

またある時、出の為に領内を通りかかったおり、農民が端でいびきをかいて寝こけていた。
臣が「けしからん」と切り捨てようとしたのを信長は制し、「兵は戦いが仕事、農民は土を耕すのが仕事だ。ああして土の上で眠っているのは良い事だし、は好きだ」と笑ったという。
安土城でも庶民との触れ合いを楽しみ、自らを点て、踊りつかれた人のを拭いてねぎらったという話が伝えられている。

またをかけていた羽柴秀吉豊臣秀吉)の妻・ねね高台院)に対し、次のような手紙を送っている。
実際にはかな文字が多く、ねねでも読みやすいように配慮した内容となっている。

仰せの如く 今度はこの地へはじめて越し 見参に入り 祝着に
殊に土産色々美しさ 中々にも余まり 筆にも尽くし難く
祝儀は仮に この方よりも何やらんと思いはば その方より見事なる物 持たせ
別に心さしなくのまま まずまずこの度はとどめ参らせ
重ねて 参りの時 それに従うべく

就中 それの見ぶり 形まで いつぞや見参らせ折節よりは 十の物廿ほども見上げ
吉郎 連々不足の旨申のよし 言語同断 曲事
何方を相尋ね共 それさまの程のは 又二度 かの禿ねずみ 相め難き間

これ以後は 身持ちを良う快になし いかにもかみさまなりに重々しく気などに立ち入りては然るべからず
ただし 女の役にて間 申すものと申さぬなりにもてなし 然るべく

尚 文体に羽には意見 請い願うものなり

又々 かしく
吉郎 女ども
のぶ

(意訳)

このたび、安土に初めて訪ねてきてくれて嬉しく思う。
更に土産の数々も美しく見事で、筆では到底表せない程だ。
返礼に私の方からも何をつかわそうかと思ったが、そなたの土産があまりにも見事で、一体何をお返しすれば良いか思いつかなかった。
そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。

そなたの美しさも、前に会った時よりも、十のものが二十になるほど美しくなっている。
吉郎(秀吉)が何やら不足を申しているとの事だが、言断、けしからんことだ。
どこを探しても、あのハゲネズミ秀吉)はそなたほどの女性を二度と見つける事は出来ないだろう。

これよりは身持ちを良くし、方らしく堂々と振る舞い、やきもちなど妬かぬようしなさい。
ただし女房のつとめとして、言いたい事は全部言うのではなく、ある程度に留めておくと良いだろう。

この手紙は羽秀吉)にも見せてやりなさい。

ゲームの中の信長

信長の野望

信長の野望」(PCシリーズにおける織田信長の力一覧。

言うまでもく、公式チート。野望は流石100。ただし、値が総合1位になるのは実は創造が初めてであり[3]下三英傑にして同作役という地位にありながら、見ようによってはなかなか不遇な人物であった。特に世記では統率75と凄まじくを下げられている。流石に評価が是正され、元の地位に戻っていった。とはいえ、特技面や戦闘バランスでも恵まれており、最強の一であることは間違いないだろう。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 93 政治 99 98 野望 100
武将風雲録(S1) 戦闘 87 政治 95 97 野望 100 教養 80
覇王 采配 97 戦闘 89 智謀 84 政治 96 野望 100
天翔記 戦才 190(A) 智才 192(A) 政才 198(A) 98 野望 100
将星 戦闘 94 智謀 95 政治 98
烈風 采配 94 戦闘 70 智謀 93 政治 98
世記 采配 75 智謀 85 政治 89 野望 100
蒼天録 統率 82 知略 88 政治 90
下創世 統率 82 知略 86 政治 90 教養 76
革新 統率 92 武勇 89 知略 96 政治 105
統率 100 武勇 89 知略 94 政治 97
創造 統率 99 武勇 87 知略 94 政治 100
大志 統率 99 武勇 83 知略 94 内政 100 外政 86
新生 統率 99 武勇 88 知略 95 政務 100

戦国大戦

俺達で、新たな世を作るのだ!」
戦国大戦での信長は五枚存在するが、四枚のみ紹介する(残り一枚はスターター専用のため割愛)。一枚1560 尾風雲児副題通り若かりしころの姿。高武・高統率な織田の顔であり、計略の「下布武」は各軍の大名采配で最もスタンダードな計略と言えるだろう。織田の武と統率を上げるため、自軍部隊の制圧が大幅に上がる。

のつっぱりはいらんですよ!」
もう一枚は、戦国傾奇(漫画とのコラボ)で登場したどう見てもキン肉マン信長
コスト3.5で武9統率2(のゴロ合わせとのこと)と一見寂しいスペックに見えるが、特筆すべきはその特技「」。
「気合」とはべ物にならない兵回復速度により驚異的なしぶとさを持ち、まさに要塞と言えるレベル。計略「火事場のクソ力」は兵が少ない程武が上がり(ちなみに最大値は29とこちらもである)、発動中は異様な硬さとなり間的に兵を減らせる計略でもない限り撃破はほぼ不可能レベルとなる。

隊、三段に構えよ!」
そして舞台は1570年に移り、信長包囲網の時代に追加された新カードの彼は、まさに「魔王」と呼ばれるに相応しい貫を持った体になった。計略の「三段撃ち」は、長篠の戦いでの逸話の通り、計略中は味方の武が上がると共に隊のリロード速度が大幅に向上し、三発を撃ち終わってすぐに装填が了する有様である。まさに相手に反撃を与えずにの巣にすることが可な計略といえよう。

の炎に包まれるは貴様か、はたしてか……!」
ver.2.0で遂に本能寺の変の彼が参戦した。イラストはとてもこれから自するとは思えない程のすさまじい迫で、歴代信長の中でも最も魔王らしいイラストとなっている。
スペックは武11統率11に制圧魅と全武将中最高クラススペックで、コスト4に加えて兵という組み合わせ故に全武将中最強の攻攻撃を持つ。計略の「是非に及ばず」は範囲内の味方の武と統率を大幅に上げる代わりに効果時間中徐々に統率が低下するというもので、統率が一定以下になると撤退する。消費士気8という重さの割に武上昇地は一般的な采配と同レベル手さには欠けるものの、効果は撤退するまで続くため計略の効果時間は長く、扱いは難しいが強な計略である。

戦国無双シリーズ

初代からPCとして参戦。身長190cm声優小杉十郎太
武器紫色の妖気をまとった西洋で、振るたびに「ブン」という音が鳴る。
アクションは特殊技タイプ。この特殊技を使うと、チャージ技が強化されたり、バリアられたりする。
値はすべての値がほぼ均以上という、信長らしい値。
少しトリッキーな動きをして攻撃するスタイルなので、初心者が使うと少し難しいが、慣れるとめちゃくちゃ強い。
見たはどの作品でもを基調とした西洋を着ており、い羽やオーラが体から出ている。…お前本当に人間かよ…

どの作品でも、上の記述にもあるように革命的な思想をもっており、既存の道徳概念や思想を否定していく。
それゆえに苛な性格をしており、カリスマ性と哲学的な考え方をもった人物である。
しかしながらナンバリングによって少し性格が違う。1ではかなり冷酷で「魔王」といった性格。2では少し優しくなり、武士として「死」を受け入れている人間を嫌う性格。3では時代を進めることを第一に考えている。4では1のように苛で冷酷だが、「己の決意を大事にするは最後までがんばれ」という少し変わったタイプの性格。共通しているのは、どれも普通人間には理解することが難しい性格をしているということである。
しかしながら臣たちには恐れられつつも、信頼はされている。
史実通り、秀吉を「さる」、元を「なき蝙蝠」と呼んでいるシーンもある。

は「価値」「是非もなし」「であるか」。

戦国BASARA

織田信長(戦国BASARA)の記事を参照

関連動画

関連項目

織田信長を題材とした作品、及び、メインキャラクターとして登場する作品

その他多数。「信長枠」の記事も参照。

脚注

  1. *余談になるが、信長非公式に太政大臣を叙任されていたという説が根強いようである。秀吉書状、近衛前久辞任などが根拠としてあげられている
  2. *正確には皇族のみが「守」に任命される王任)。ほかに常陸上野も同様。
  3. *多くの作品での総合1位武田信玄。しかし一方で信玄は各トップに立つ事は少ない

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織田信長

1377 ななしのよっしん
2024/01/19(金) 11:25:16 ID: mYq3psQjeM
>>1375
しかも信長がそれを認識できてないっぽいんだよな、あれだけ頭冴えてる人なのに
意識にパワハラしてくる上というか、本人はしみの表現と思ってパワハラやってるみたいな
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1378 ななしのよっしん
2024/01/25(木) 02:03:30 ID: JT5LmMLPMq
個々の重臣ら(余所者)が押しかけてきて軍役徴発して即応体制が強みでもある一方、戦続きで更に増税となったら地元の国衆らの反発も招くわけで…(荒木とかも地元の民の不満の突き上げもあった感あるし一向一揆とかも言わずもがな
身内贔屓で自覚に人の地雷を踏むから上後はキャパオバーしてる感凄い→毛利の決裂も毛利包囲網の一でもあった浦上宗景に備前等三安堵の朱印状銭の見返りであっさり出す、岩村遠山氏に自分の子出して武田視点で「徳との停戦仲介やらない侵犯」と見られた節あり、上杉とも武田と挟み撃ちの約束奢待とかでドタキャンしたのに上杉越中とかに攻めたら怒る
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1379 ななしのよっしん
2024/01/27(土) 22:37:04 ID: B4hGQ+hSm1
信長って結構外交下手だよな 
長宗我部上杉毛利武田、結構やらかしている
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1380 ななしのよっしん
2024/02/03(土) 21:07:52 ID: aiWmqliRYD
そもそもあだ名付けた、というのはどれぐらい史実性がありそうなのかな?

少なくとも光秀金柑頭が記載されてる史料は信頼性がそれほどないと言われていて、裏付けのない話を史実として話すと否定が大変なので確認された話だと助かるのだけど
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1381 ななしのよっしん
2024/02/03(土) 22:04:41 ID: Dr31D+PNZN
秀吉の「ハゲネズミ」はねねへの信長直筆の手紙で残ってなかったっけ?
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1382 ななしのよっしん
2024/02/03(土) 22:34:07 ID: aiWmqliRYD
>>1381
ありがとう、これは確かに史料ありの史実だな
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1383 ななしのよっしん
2024/02/05(月) 04:42:17 ID: KQfOiaGeQj
ちなみに秀吉ハゲネズミと呼んだのは、多症の「六つ」と利ら同僚から言われていた(と同時代正史資料がある)のに対して、ある程度差別的でいどこにでもいるハゲ痩せブサイクというものに転した信長の気遣いと言えなくもないかもしれない
秀吉を多症呼びした史料が結構多いが、ハゲネズミというあだ名信長しか使っていない
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1384 ななしのよっしん
2024/03/11(月) 14:56:47 ID: dtvxjNSVaz
>>1379
外交下手いうか、複雑怪奇なだけやろ
秀吉四国征伐九州征伐だって
元は「長宗我部VS毛利」「大友VS島津」の
外交問題から拗れてる
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1385 ななしのよっしん
2024/03/11(月) 15:00:06 ID: sYbBQTK5Xa
そもそも大勢外交だけで終わらせれるはずがないだろ?
相手も一所懸命なんだよ?
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1386 ななしのよっしん
2024/03/16(土) 12:26:42 ID: FMqj29oVjP
「武」はを止めると書くので下布武とは戦なんかやめてラブピースしようぜという意味の可
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