- プロ野球選手一覧 > 橋本武広
概要
OB | |
---|---|
橋本武広 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 青森県上北郡 |
生年月日 | 1964年9月18日 |
身長 体重 |
167cm 74kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1989年 ドラフト3位 |
引退 | 2003年 |
経歴 | |
選手歴
|
|
プロ野球選手テンプレート |
七戸高等学校に進学。県内トップクラスの投手として青森県内では有名であった。3年時には延長18回無失点勝利やノーヒットノーランを記録したが、甲子園大会には手が届かなかった。
卒業後、東京農業大学へ進学。4年時には春のリーグ戦でチームの東都大学リーグ一部昇格に貢献したが、秋には二部に降格してしまっている。
大学卒業後、プリンスホテルに入社。同期には石井丈裕がいた。1989年には都市対抗野球大会に出場。リリーフとして活躍し、チームの初優勝に貢献。
1989年ドラフト会議にて、福岡ダイエーホークスから3位指名を受け入団。同期には馬場敏史がいた。
左の先発投手として期待され、初年度から20試合に登板。ただ、スタミナ不足が露呈し、長いイニングを投げると打ち込まれることが目立ったことからリリーフに転向。1993年には20試合に登板して防御率3.27を記録したが、目立った成績は残せなかった。
1993年オフ、秋山幸二・渡辺智男・内山智之とのトレードで佐々木誠・村田勝喜とともに西武ライオンズへ移籍。当初は佐々木と村田だけの3対2のトレードであったが、それではバランスが悪いということで橋本が足されたという、言ってしまえば『数合わせ要員』でしかなかった。
1994年、前半戦はわずか2試合の登板と期待度の低さが見えるような起用法であったが、後半戦は8月の全登板を無失点に抑えるなど貴重な左の中継ぎ投手としてブレイクを果たす。22試合に登板して1セーブ、防御率2.86と好成績を残し、パ・リーグ制覇に貢献。日本シリーズでも3試合に登板している。
1995年、肩の故障で離脱した杉山賢人に代わり、左のワンポイントとして、要所を締める活躍で存在感を示す。チーム最多の58試合に登板し、3勝1敗1セーブ、防御率1.94と抜群の安定感を発揮した。
以降も左の中継ぎエースとして、ピンチを凌ぐ役割をきっちりとこなし、毎年50~60試合以上に登板。1995年・1997年・1998年にはリーグ最多登板を記録している。
1997年には68試合に登板し、2勝1敗1セーブ25ホールド、防御率1.68を記録し、最多ホールド投手のタイトルを獲得。1998年には胴上げ投手も経験している。
2001年、不振に陥り、トム・エバンスとのトレードで阪神タイガースへ移籍。阪神では15試合に登板したが、防御率13.50と活躍できなかった。
2003年開幕後に、吉田篤史とのトレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍。23試合に登板したが、衰えは隠せず、防御率6.75という成績に終わり、同年限りで現役を引退した。
引退後、解説者を務めながら、母校の東京農業大学でコーチを務め、2010年には古巣西武の二軍投手コーチに就任。
西武退団後、再び解説者として活動。2020年からは解説業と並行する形で、三菱自動車岡崎硬式野球部のコーチに就任している。
人物・エピソード
連投に耐えれるタフさと、切れ味抜群のストレートやスライダー、カーブを武器に活躍した中継ぎエース。
526試合連続救援登板の記録は、2008年に藤田宗一が記録更新するまで日本記録であった。
プリンスホテル野球部に入部直後、環境の違いやレベルの高さに自信を失い脱走したことがある。
通算成績
投手成績
通算:14年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 560 | 0 | 0 | 12 | 22 | 20 | --- | .353 | 482.2 | 216 | 374 | 224 | 199 | 3.71 |
獲得タイトル・記録
関連動画
関連項目
- 0
- 0pt