- プロ野球選手一覧 > 浅野啓司
浅野啓司(あさの けいし)とは、元プロ野球選手である。
概要
OB | |
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浅野啓司 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県福山市 |
生年月日 | 1949年2月22日 |
身長 体重 |
175cm 75kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1966年 第1次ドラフト9位 |
引退 | 1984年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
福山電波工業高校に進学。創部して間もないチームのエースとして活躍。2年の夏には激戦区の広島県大会を勝ち進み、決勝戦では惜しくも敗退したが準優勝へ導いた。
1966年第1次ドラフト会議にて、9位指名を受けサンケイアトムズに入団。
1967年、高卒新人ながらリリーフとしてチームを支え、終盤戦には先発としても登板。規定投球回を達成し、8勝10敗、防御率2.77と好成績を残した。
1969年、阪神タイガースへ移籍した鈴木皖武に代わり抑えの切り札を任され、9勝6敗、防御率2.64という成績を残す。
1970年からは先発投手をメインに起用される。同年は開幕から好調で前半戦だけで6勝を挙げたが、後半戦は故障で離脱。最終的には6勝12敗、防御率3.88に終わる。また、オールスターゲームの出場メンバーにも選ばれていたが出場辞退している。
1971年は7勝14敗、1972年は6勝14敗と大きく負け越してはいるが、防御率は両年とも3点台であり、守乱や援護の無さに泣かされる展開も目立った。
1973年、初の二桁勝利となる14勝(12敗)を挙げ、防御率も2.37と抜群の安定感を発揮し、これまで万年Bクラスであったチームが最終盤まで優勝争いに絡む原動力の一人となった(最終的には1位と4.5ゲーム差の4位)。同年、オールスターゲームにも初めて出場している。
1974年は12勝15敗5セーブ、防御率2.39と前年同様好成績を残し、チーム13年ぶりのAクラス入りに貢献した。
1975年以降は腰の故障や広岡達朗監督の指導・起用法が合わず低迷。
移籍初年度の1977年は9勝4敗1セーブ、防御率2.51と復活を果たし、カムバック賞を受賞。日本シリーズでも登板機会を得て、勝利投手にもなっている。
引退後はヤクルトや日本ハムファイターズ、台湾プロ野球の中信ホエールズで投手コーチを歴任。
中信退団後、ブラジルのヤクルト野球アカデミーを経て、白鷗大学・東京国際大学の投手コーチや監督を務めた。
その後、シニアリーグでコーチをしていたところ、巨人時代の同僚であり横浜DeNAベイスターズのフロントを務めていた高田繁(GM)と吉田孝司(GM補佐)から「ウチの投手担当コーチは全員30-40歳代で若い。相談にのってやってほしい」と請われ、2016年から2シーズン巡回コーチを務めた。
人物・エピソード
多彩な変化球と速球を武器に低迷期のサンケイ・ヤクルトを支えた本格派右腕。ヤクルト時代は巨人キラーとしても知られた。
速球派の投手であり、晩年もキレのある速球を投じていたため『歳を取るごとに球速が早くなる男』と呼ばれることもあった。
通算成績
投手成績
通算:18年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 542 | 42 | 8 | 86 | 116 | --- | --- | .426 | 1715.2 | 563 | 1043 | 741 | 647 | 3.39 |
表彰
関連項目
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