高階栄子 / 丹後局(?~1216)とは、平安時代末期~鎌倉時代の女性である。
概要
後白河天皇の側室で、院近臣の家系にあたるため、彼の側近として活躍した存在。なお、下の名前は音読みではなく「よしこ」という説もあるが、はっきりしたことは不明。
父は比叡山の法印・澄雲であり、母、および生年は不明。後白河院の院近臣であった平業房と結ばれ、二人の間には平業兼や平教成らの公卿が誕生した。
彼女が頭角を現すのは、治承3年(1179年)に平清盛によって後白河院が幽閉されたクーデター以後である。この際、後白河院は彼女を寵愛するようになり、第六皇女・宣陽門院覲子内親王を生むと、その権勢が増していく。
その後、平家が都落ちすると、後白河院は、表向きは卜占や彼女の夢に従い、後鳥羽天皇を皇位につけた。しかし、実際には高倉範季とその姪・藤原兼子(高倉兼子・卿二位)ら後鳥羽天皇の外戚が、丹後局こと彼女に接近したというのが大きく影響されたようである。
この辺りは、九条兼実の『玉葉』文治元年(1185年)12月28日の条に、最近の政務はもっぱら彼女に左右されているという記載が残されていることからもわかる。
文治3年(1187年)には従三位に、建久2年(1191年)には娘の覲子内親王の女院号宣下と同時に従二位となり、翌建久3年(1192年)には後白河院の死後、長講堂領を設け、大きな経済基盤を得た。
その後九条兼実にやや押され気味となった彼女は、源通親と組み、源頼朝を利用し建久7年(1196年)に建久七年の政変を起こす。ただし、権勢は衰えていったようで、建保4年(1216年)に亡くなった。
関連項目
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