一式自走砲 単語

イッシキジソウホウ

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一式自走砲とは日本陸軍開発した自走砲である、一式七糎半自走砲ホニⅠ及び一式十糎自走砲ホニの通称であり、本記事ではに前者を中心に解説する。

前史

1930年代末、日本陸軍の火の移動させる方法が従来ので引く方式から機動力を向上させた自動車で引いて移動する方法に移り変わろうとしていた。
一方、列強諸ではその火車輌に搭載し自走化させることにより更なる機動力の向上を図り、火の効率化を自走砲開発研究を開始していた。
当時の大砲の多くは、

  1. 射撃を行う場所を決めたら、そこへ大砲を止める。
  2. そのままの状態では射撃ができないので、分解して射撃できる形に組み立て直す。
  3. 移動する場合は、そのままでは移動に不便なので再び分解し移動用の形態に組み立て直す。
  4. (別の場所で再び射撃を行う場合は、1に戻る。)

射撃から移動、移動から射撃までに非常に時間がかかり非常に不便であり、性を良くするほど大きく重くなり、その分かかる時間や負担が増加した。また、敵部隊襲や撃をもらい易く、特に人力で移動しなければならない場合はさらに移動速度は低下した。
しかし、火をあらかじめ射撃が可な状態でトラック装軌車両に搭載(自走化)することで、いままで射撃や移動の準備に割いていた時間を省くことができ、敵の反撃を受ける前に素く別の場所へ移れるようになることで生存性も上がり、敵の準備が整う前に進軍することも可になるのである。

開発

日本陸軍も欧列強に遅れまいと1939年自走砲研究開発を開始し、まず二種類の火九七式中戦車(以下チハ)の体に前方部分のみを装甲で覆った戦闘室を設けて搭載することにした。
前者は性は良かったが重量があった九〇式野ありこれを搭載したモノは一式七糎半自走砲(以下ホニⅠ)
と呼ばれ、後者は将来の師団として期待されていた九一式十榴弾であり、これを搭載したモノを一式十糎自走砲(ホニ)と呼び、この二種類の自走砲の本命であった。

なお本来、体となる体はチハではなく後継の九八式中戦車(チホ)もしくはチヘとなるはずだったが、この時点では量産までこぎつけていなかった。そのため間に合わせのためにチハ体が選ばれたといわれている。

ホニⅠの開発研究スムーズに進み41年に完成、同年6月10月に行われた各種試験は良好であり
11月に制式化したが、本命のホニの方は41年7月試作を開始し12月完成する予定だったがホニⅠより9カ遅れの42年2月にやっと完成した上にその後の射撃試験時に不具合が多発しさらに制式化が遅れた。
いずれにしても力不足により両車輌の量産が始まったのは43年11月頃であった。
終戦までの総生産数はホニⅠ・合わせて124両(うち、約70両はホニ)であったといわれている。

構造

ホニⅠの搭載は、原をそのまま搭載するわけにはいかないので、まず尾栓(弾が収まる部分のフタ)を縮小化することにより後座長を300㎜程低減、発射ガスの逆流による鼻血の問題の原因にもなっていた口制退器を外したほか車載向けに小改良を施した(ホニは不明だが後座長が減少しているためホニⅠとほぼ同様の改良が施されていると思われる。)。
それら以外の構造は原と同じであり、射撃を行う時は対戦車戦車のように引き金を引いて射撃をするのではなく紐を引っる(垃縄式)ことで射撃を行った。駐退器をそのままである。

戦闘室はホニⅠ・ともに、先述の通り旋回するし前方と(側面との一部)のみを覆ったオープントップ方式を採用した。正面は25㎜側面は12㎜、上面は8㎜(ホニは車体に16・戦闘室面に25㎜の増加装甲付き、水平射界は左右22度ず、仰角は25、俯角は15まで砲口を向けることができた。

ホニⅠには二次的(後に主任務)にも対戦車戦闘を考慮されていたため徹甲弾が配備され100mで約90㎜の垂直装甲を貫通した。またホニにも徹甲弾成形炸薬弾が配備され前者は100mで約80㎜を貫通し、後者距離にかかわらず同条件で120㎜貫通した。

実際の運用法

ホニⅠ・ホニのほとんどは戦車師団の砲兵部隊独立自走砲部隊に配備され、ごく少数のホニⅠが戦車部隊に配備されたといわれる。
なおホニⅠ/IIはどちらも対戦車戦闘を重視して作られた火ではなく、あくまでも高速移動が可な野戦であり、戦車や対戦車などに装備される直接照準器はなく、撃発方式が引き金式でなく拉縄方式であったため、むしろ戦車戦闘は不得手であった。ちなみに、ホニⅠに追加装甲が取り付けられたのは、開発導した砲兵部隊によって第二次世界大戦初期の突撃近い運用もめられた為であり、対戦車用ではなくあくまで地用である。
だが、1940年頃より戦車部隊側が九〇式野を将来の戦車になりうると考えており、それを搭載した(後の三式砲戦車に似た)車両も構想されていた。その理想像に一番近かったのがホニⅠであり、正式には砲兵の装備たる「試製一式自走砲」として進められていたのにもかかわらず、戦車部隊側はこれを無視するかのように独自に動的射撃試験を行い「試製一式砲戦車」としたため兵科縄張り争いも発生した(後述)。
そして大戦後期には自走砲主任務が対戦車戦闘へ切り替わり、また搭載の基礎となった九〇式野も対戦車に転用されており、ホニⅠが対戦車火力の一端を担い対戦車戦闘に駆り出されることになるのは自然の流れであった。

45年に機動砲兵部隊に配備された四両のホニⅠがルソン戦に投入され機動九〇式野とともに敵戦車トラックを破壊する戦果を挙げたが戦局に何らを及ぼさず、ホニ独立自走砲大隊としてフィリピン防衛戦に参加する予定だったが、し実戦参加することはなかった。

一式砲戦車と一式七糎半自走砲について

ホニⅠは一式七糎半自走砲という砲兵部隊での呼称の他に、戦車部隊向けに再制式化あるいは配備されたモノを一式砲戦車と呼ばれている。しかし、実際には(一例を除き)戦車部隊兵器砲戦車として採用されたわけではない。これは砲兵部隊戦車部隊開発されたばかりのホニⅠの所在を巡り、しい論争を繰り広げた名残であり、戦車学校がホニⅠを一式砲戦車と呼んでいたのが大元である。
この時のホニⅠは(一式)砲戦車第二案及び砲戦乙とも呼ばれており、第一案にあたるホ車と競争試作の関係にあった。(ホ車は砲身75車砲を砲塔に搭載した戦車である。)また、ホニというコードネムは砲戦車第二案の略でもあった。
その発端は、ノモンハン事件において想定以上のソ連戦車の脅威や戦車戦の増加が危惧され、砲戦車にも対戦車力が要されたためである。それまで開発途上にあったホイの短身75㎜では、

  1. 「初速が低いので命中率が悪い。」
  2. 「中以上の距離で動く標にも当てづらい為、対戦車戦闘に向かない。」
  3. 「対装甲力も期待できない。」
  4. 「装填速度の遅さと観測の関係上、命中率の悪さも相まって継続的な対戦車地の制圧が難しい」

という摘を受けていた。これらを改善するには初速の高く対戦車力が高い野を搭載とする必要性があり、白羽の矢が立ったのが一式七糎半自走砲だったわけである。
しかし、ホイとの試験を行ってさらに議論を重ねた結果、命中率の良さや威力の良さなどが認められ、
ホニⅠを砲戦車として採用するに当たり、

などの改良案が挙げられた。しかし、向できる範囲が狭く、弾を多く搭載できないなどの問題が摘されたほか「戦車戦闘専用の駆逐戦車を用意すればよい」、「砲戦車従来通り対戦車地殲滅に専念する」、という方向へ向かいこの一連の騒動は昭和17年ごろまでに沈静化していった。
そして、ホニⅠは当初の予定どおり「一式七糎半自走砲」として砲兵部隊で運用していくことになる。ただ、この「一式砲戦車」の名は情報改訂の遅れからしばらく使われた他、戦争末期には戦車部隊内に砲戦車とは別個に自走砲中隊を組み込むという特殊な編成をすることもあった。(経験者の手記では特殊であるという意識がなく砲戦車中隊と回想されることもあったようで一式砲戦車が機甲科に採用されたという勘違いを広める一因になったと思われる。)
その他、昭和18年頃に砲戦車駆逐戦車の役割が吸収されたことにより、ホニⅠの砲戦車化案が三式砲戦車と言う形で復活するとともにビルマに送られていたホニⅠが代用砲戦車として運用された。(元々、ホニⅠは本命ではなかったため量産は期に打ち切られており、この砲戦車化案の復活は余った部材を再利用する意味合いもあったという。)

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