北条政子(1157~1225)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した女性である。
北条時政の娘。母は不詳。さらに言えば政子という名前も、朝廷から従三位に叙された際に父・時政の名から一字取って命名されたものであり、元の名は不詳。源頼朝の妻となり、源頼家・源実朝と女子二人の母となった。
北条時政が源頼朝の監視役となった関係から、頼朝と出会う。『源平盛衰記』によると当初平家を恐れる北条時政に源頼朝との結婚を反対されるものの、政子がその意を押し切って、深夜豪雨の中を伊豆走湯山の頼朝のもとに走った、という経緯があったようだが、この話が事実かどうかは不明である。
実際『曾我物語』にみられる、この時北条時政によって決められた嫁ぎ先である伊豆目代・山木兼隆は、史実では頼朝挙兵直前まで伊豆にはいなかったようだ。
とにもかくにも1178年ごろには長女・大姫が誕生している。源頼朝の挙兵後は一時的に走湯山に身を隠し、頼朝が南関東をほぼ制圧した段階で鎌倉入りし、正式に御台所になった。1182年に源頼家、1185年頃に三幡、1192年に源実朝を産んでいる。
やがて源頼朝が上洛した際は、これに付き従い、故後白河院の寵姫・丹後局(高階栄子)と会談し、大姫入内問題について意見を交換している。しかし、頼朝がそれまで協力関係にあった九条兼実らを切り捨てて、土御門通親ら村上源氏と協力したこの入内計画は、結局大姫が亡くなったことになって水泡に帰した。
1199年に源頼朝が亡くなると出家し尼になる。しかし自分の息子である源頼家率いる比企党と、頼家の近くから排除されつつあった北条氏の対立では父・北条時政や、弟・北条義時と歩みを同じくし、頼家と対立。比企能員の乱で息子の源頼家も含めた比企党の排除に協力した。
しかし、1205年の畠山重忠の乱後の牧氏の変では弟である北条義時、北条時房らと同様父・北条時政から離反。源実朝を自分のもとに引き取り、時政らを幽閉した。
1218年に後鳥羽院を筆頭にした京都政界との和解工作のために熊野参詣を口実に上洛。北条政子は後鳥羽院らと接するため従二位まで登り、卿二位藤原兼子と会談し、後鳥羽院の皇子を子供のいない源実朝の後継者としてつけることを確約することに成功する。しかし、1219年の源頼家の息子・公暁による源実朝暗殺をきっかけにし、親王将軍の下向は反故にされてしまい、源頼朝の妹・坊門姫の血縁にあたる九条家の三寅(後の4代将軍・九条頼経)を後継者として引き取り、政子は幼い彼に変わり「尼将軍」として政務を後見した。
そして起きたのが、1221年の鎌倉幕府から北条義時を排除することを目指した後鳥羽院の承久の乱である。北条政子はかの有名な演説で東国御家人を団結させ、弟・義時に全面協力を行い乱の終戦処理にあたっていった。
その後、北条義時の没後に起こった義時の後継者をめぐる伊賀氏の変で、これを抑えて北条泰時を継がせることに成功。さらに泰時の補佐役としてなおも影響力を残していたが、1225年についに没することとなった。
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48 ななしのよっしん
2022/12/22(木) 11:18:34 ID: YK0d1fMe9W
>>45
まあ「傑物」という言い方をするなら呂后も単なる血に狂った女羅刹って訳ではないから
49 ななしのよっしん
2023/05/19(金) 08:36:00 ID: 6sZAckYxQG
その後の鎌倉考えたら北条政村をお咎めなしにしたのは正に名采配だけど、状況的には連座してても全くおかしくなかったよな。
50 ななしのよっしん
2023/10/09(月) 18:09:22 ID: ycuBkwtwgD
概要の所、北条義時は兄じゃなくて弟だよな?(政子57年生まれ義時63年生まれ)
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最終更新:2024/11/01(金) 08:00
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