実業家で血盟団事件で倒れた團琢磨が祖父、美術史家で参議院議員も務めた團伊能が父であり、母方の大叔父に金子堅太郎もいる。
幼年期を原宿で過ごし、太田黒元雄の『西洋音楽史』を読み、作曲家を目指すこととなる。7歳の頃からピアノを学び始め、青山学院中学部2年生のときにはすでにピアノ曲や歌曲を作曲している。
1942年に東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)に入学。下總皖一、橋本國彦、細川碧らに師事するとともに、 学外で山田耕筰の薫陶を受けた。1944年に、陸軍戸山学校軍楽隊に入隊するが、翌年に復学してそのまま卒業する。しかし、作曲技術の修得に不足を感じ、さらに諸井三郎のもとで対位法や楽曲分析を学んだ。
1950年 NHK創立25周年記念管弦楽曲募集コンクールで『交響曲イ調』が特賞を受賞して作曲家としてデビューする。1952年木下順二の戯曲を元にした初のオペラ『夕鶴』を初演し、毎日音楽賞、伊庭歌劇賞,山田耕筰賞を受賞した。1953年芥川也寸志、黛敏郎と「三人の会」を結成することとなる。
戦後の作曲界をけん引した一人であり、皇室の記念的な行事にも楽曲を提供している。一方、日中文化交流協会の会長を務めるなど、中国との文化交流にも寄与し、さらにはベストドレッサー賞に選ばれた作曲家でもある。しかし2001年に中国で客死することとなった。
どちらかといえばオペラを中心に作曲活動を行ったが、山田耕筰のように「ぞうさん」、「おつかいありさん」、「やぎさんゆうびん」といった童謡も手掛けている。
あまり知られていないが、「ラジオ体操第二」の作曲は彼である。
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4 ななしのよっしん
2016/04/09(土) 22:18:00 ID: gUATr7PP4N
自分が卒業した大学の校歌が團さん作曲だったなぁ。
結局入学式と卒業式でしか歌わなかったけど、田舎県だったからどういう経緯でオファーするに至ったのかいつも疑問におもってたわ。
5 ななしのよっしん
2016/10/07(金) 00:23:19 ID: uZ0xro+KfO
結構校歌の作曲本数は多いみたい
自分とこも中学校の校歌が團先生だった(23区)
6 ななしのよっしん
2018/04/19(木) 04:53:31 ID: rGIG63vy4q
團さんは1950年代前半までは脚光を浴びたが、1960年代には時代遅れと見なされて批評家にはこき下ろされてた。それでも晩年まで淡々と作曲を続けられてて偉かった。
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最終更新:2024/12/22(日) 18:00
最終更新:2024/12/22(日) 17:00
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