山田秋親(やまだ あきちか、1978年9月19日-)とは、京都府出身の元プロ野球選手(投手)である。
OB | |
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山田秋親 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府京都市 |
生年月日 | 1978年9月19日 |
身長 体重 |
184cm 85kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 2000年ドラフト2位 |
経歴 | |
選手歴
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プロ野球選手テンプレート |
立命館大学では153km/hの速球を武器にシドニーオリンピック代表にも選ばれ、大学ナンバーワン投手の座をほしいままにする。2000年のドラフト会議では各球団が争奪戦を繰り広げたが、最終的に福岡ダイエーホークスを逆指名してドラフト2位で入団。ダイエーは1位で九州共立大学のエース山村路直を同じく逆指名で獲得し、この年の大学生投手の目玉ふたりをいっぺんに獲得するという辣腕ドラフトとなった。入団時には、山村と「2人合わせて3年で100勝」という壮大なノルマをぶちあげ、「山山コンビ」と呼ばれ鳴り物入りでプロ入りする。ちなみに入団時の契約金は規定を大幅に上回る6.5億円だったらしく、高額納税者ランキングのスポーツ部門にルーキーでランクインした。
蓋を開けてみれば1年目に2勝2敗、2年目に5勝6敗でどちらも防御率5点台に留まり、山村に至っては謎の故障を繰り返して一軍登板すらなく、3年で100勝のはずが、3年間で挙げた勝利は山田の9勝だけに留まる。
2003年からリリーフに転向し、2004年には三瀬幸司に繋ぐセットアッパーとして35試合に登板したが、その後は故障を繰り返して二軍暮らしが続く。山村とともにしぶとく生き残り続けたが、1試合の登板に終わった2008年オフ、山村と共に戦力外通告を受けた。オフは手術の影響でトライアウトにも参加できなかったが、プロ復帰を目指した。
2009年は四国・九州アイランドリーグの福岡レッドワーブラーズの練習に参加してリハビリを行い、秋にはチームに正式入団して実戦復帰を果たす。同年オフにトライアウトを受験し、千葉ロッテマリーンズからオファーを受けNPB復帰を果たした。NPBで戦力外通告を受けた選手が独立リーグを経てプロ復帰を果たしたのは山田が一人目である。
2010年は登録名を「秋親」として臨む。4月末に一軍登録されると、主に敗戦処理やロングリリーフで好投し6月までは防御率1点台と活躍した。ところが、6月末からは立て続けに失点を重ね8月に二軍落ち。最終的には28試合で防御率4.88という成績に終わった。
2012年も一軍登板はなく、戦力外通告を受けた。現役続行を希望しトライアウトを受験したがオファーはなかった。
ロッテの一軍で投げていた頃は、ホークスで二軍にいた時期が長く、登録名も変わっていたため、ホークスで騒がれていた頃を知っている人でも言われないとあの山田だと気付かない人が多かったようである。また山田大樹が一軍で投げ始めた頃はこっちの山田と間違える人がちらほら見られた。
ミキハウスに契約社員として入社し社会人野球で現役続行。2016年まで活動し退団。
2017年からはびわこ成蹊スポーツ大学硬式野球部の投手コーチに就任している。
通算:8年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
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NPB | 126 | 2 | 1 | 16 | 11 | 1 | 2 | .593 | 266.1 | 142 | 218 | 146 | 141 | 476- | 1.49 |
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最終更新:2025/02/17(月) 02:00
最終更新:2025/02/17(月) 01:00
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