徳川家斉(1773~1841)とは、江戸幕府第11代征夷大将軍である。
日本史における子だくさんな有名人の一人、もはやそのことのみで語られる感のある人物。
彼の父は徳川吉宗を理想としていたようだが、幼くして征夷大将軍になった徳川家斉に親政を行えるわけもなく、結局松平定信を主導として寛政の改革が行われた。やがて徳川家慶に跡を継がせて自らは大御所として君臨し、彼の死と前後して水野忠邦による天保の改革が実施。ついに幕末が近づいてきた。
安英2年(1773年)に御三卿の一つ・一橋治済の4男として生まれた。生母は治済の側室・岩本正利の娘である於富の方(慈徳院)である。
安英8年(1779年)に徳川家治の息子・徳川家基が急死すると、天明1年(1781年)に田沼意次、酒井忠休、依田政次らによって擁立される。これは田沼家が一橋家の家老だったことによるものとも。かくして、天明2年(1782年)に元服して従二位権大納言に叙任される。そして天明7年(1787年)に征夷大将軍・正二位内大臣となった。
しかし、この間田沼意次が罷免される。父・一橋治済は徳川家重時代の大岡忠光以来の側近政治を批判する文言を尾張藩主・徳川宗睦、水戸藩主・徳川治保宛に送っており、徳川吉宗時代への回帰を目指したことによると言われている。しかし15歳の徳川家斉に親政が行えるわけもなく、松平定信が補佐役として抜擢された。
しかし尊号事件の際、徳川家斉が一橋治済に大御所の尊号を与えることも松平定信が反対したことなど、次第に両者の確執が表面化。寛政5年(1793年)に松平定信は免職することとなった。
以後しばらくは徳川家斉一門の官位昇進くらいしか語ることはない。徳川家斉は自分のみならず、実父・実子・妻・母を前例にない高位・高官につけたのである。他にも徳川家斉は縁組先の大名・養子入りした子・御三家の官位を上昇させる。こうして天皇権威で自身と直系親族を権威づけていったのである。
そして天保8年(1837年)に徳川家斉は実子・徳川家慶に将軍を譲り、大御所となった。このため松平定信の失脚による寛政の改革が終了した寛政5年(1793年)から、徳川家斉が亡くなる天保12年(1841年)までを大御所時代と呼ぶ。
しかし、寛政の改革の緊縮財政を維持していた文化期に比べ、文政期に入ると経済が拡大して町人文化が拡大した一方で、天保期には放漫な政治・天保の飢饉による一揆打ちこわしの多発・大塩平八郎の乱や生田万の乱で幕府の威信は失墜・列強の脅威とその対応、といった具合に幕府は傾き始めていった。
こうして豪奢な生活と好色家として知られた徳川家斉だったが天保12年(1841年)に亡くなる。この結果諸大名の不満が爆発し、徳川家斉時代の官位の上昇は先例とならないことが宣言され、水野忠邦による天保の改革も進められていく。ペリー来航まで残り12年であった。
一応はどこかの藩主やその妻となったものを青色にする(死産を除くと公式には五十三人いるはずだがほとんど成人してない…)
掲示板
18 ななしのよっしん
2024/05/19(日) 18:59:02 ID: u/LHr2MFEf
>>15
53人の内、成人できたのが半数ってのは単に死亡率の問題に過ぎない。
次期将軍の家慶以外は親藩や有力外様に養子や正室として送り込むことで後継者問題が起きないようにしているわけで。
尤も、養子先で後を残せなかったケースがほとんど(景徳院の加賀前田家、斉裕の阿波蜂須賀家、斉民の津山松平家のみが家斉の血筋を現代に残している。)
19 ななしのよっしん
2024/08/30(金) 00:29:09 ID: 9KaUaKG9ss
20 ななしのよっしん
2024/08/30(金) 00:38:59 ID: RtgQVbqxsk
いやー状況が違いすぎるし比較できないでしょ……
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最終更新:2024/12/12(木) 22:00
最終更新:2024/12/12(木) 21:00
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