板垣信方(いたがき のぶかた、1489年?~1548年)とは、戦国時代の武将。武田家の重臣で信虎・晴信(信玄)の二代に仕えた。
武田家を支えて活躍し、江戸時代以降は武田二十四将の一人に数えられた。
甲斐国の有力国人衆・板垣家の当主。
武田信虎を補佐して軍事・外交で活躍し、甲斐国統一に貢献した。
後に他の重臣たちと共謀して信虎を駿河国へ追放し、嫡子晴信(後の信玄)を武田家の当主に迎えた。
晴信政権では甘利虎泰と共に重臣筆頭となった。
信方は多くの戦で先鋒を務めて奮闘し、武田家当主の代理として武田軍を率いることもあった。
1549年、村上義清の軍勢と戦い、敗死した。
板垣家は武田家の分家で、成立は平安時代末期まで遡る名門武家。
板垣信方が誕生した頃の甲斐国は群雄割拠の状態で、今川家、北条家、扇谷・山内上杉家が介入して混乱を助長していた。
武田信虎に仕えた信方は主君と共に甲斐国統一を目指し、敵対勢力と戦った。
1521年には軍師を務めて今川軍を撃退。その活躍を武田信虎は絶賛し、生まれたばかりの嫡子晴信の傅役に選んだ。
信方は外交でも活躍して武田・今川の同盟を成立させた。
甲斐を統一した武田信虎は、周辺の諸大名と同盟して敵を北条家に絞った。
1541年、武田信虎は娘婿の今川義元に会うために駿河へ出発。
その隙に、信方は他の重臣たちと共謀して国境を封鎖し、武田晴信を武田家の当主に据えた。
信虎は甲斐への帰還を諦め、今川家に居候した。その後は奈良や京都で第二の人生を送った。
信方が謀反を起こした原因は諸説ある。
・武田信虎は戦好きの暴君だったので、武田家の将来を憂いた信方たちが信虎を排除した。
・信虎が晴信を廃嫡しようとしたので、傅役の信方が決起した。
・英邁な晴信が父の追放を決断し、信方たちを説得した。
・信方は私欲で武田家を利用しようとして晴信を傀儡当主にした。
武田晴信が当主となった武田家で、板垣信方は「両職(重臣筆頭)」となった。
信方は信虎時代に逃亡していた国人衆の帰参を促し、晴信政権の支持基盤を強化。
対外政策では信虎の協調路線を捨て、諏訪家、山内上杉家と対決する拡大路線を選択。
諏訪頼重と上杉憲政は、盟友だった信虎が追放されたすぐ後に、三家の緩衝地帯だった信濃国佐久郡から武田家の勢力を排除していた。
信虎追放の翌年1542年、武田軍は信濃国諏訪郡へ侵攻し、諏訪頼重を滅ぼした。
さら信方は武田軍を率いて、諏訪郡へ侵攻した高遠頼継を撃退し、諏訪家の旧領全域を掌握。
この功績により晴信から諏訪郡の統治を任され、上原城を改修して入城した。
翌1543年、武田軍は佐久郡への侵攻を開始。平定まで5年に及ぶ長い戦いを始めた。
信方は諏訪衆を率いて武田軍の主力を担い、佐久郡の攻略に邁進。
同時に、武田家と敵対した高遠頼継、小笠原長時、藤沢頼親と戦い勝利して武田家の勢力を拡大させた。
1547年、武田軍は佐久郡の志賀城を包囲した。
武田家の急速な勢力拡大を危惧した上杉憲政は、志賀城が包囲されると、直ちに援軍を派遣した。
信方は伏兵を用いて上杉軍を撃破し、多数の敵兵を討ち取った。
救援の望みを絶たれた志賀城の将兵は、出撃して武田軍と戦い全滅。
戦後、武田軍は現地で見せしめの為に大規模な人狩りを行った。信方が主導したという説がある。
1548年、武田軍は北信濃の村上義清を攻撃。信方は先鋒を務めた。
武田軍は優勢だったが、村上軍の強襲を受けて大敗を喫した。
先鋒にいた板垣信方は戦死。本隊が退却する時間を稼ごうと踏み止まり、奮戦した末の討死だったとされる。
板垣家の家督は嫡男の信憲が継いだが、信憲は傲慢という理由で武田家から追放された上、武田晴信が送った刺客に殺害された。
この処置により板垣家は断絶したが、後に信方の娘婿が相続を許されて板垣家を再興した。
板垣信方は武田家の忠臣と讃えられ、江戸時代には武田二十四将の一人に数えられた。
晴信を教育し武田家当主に据えたこと、戦場での活躍、後に武田家を支えた人材の登用など、信方は多くの貢献を行い武田家躍進の基礎固めをした。有名な山本勘助も、板垣信方に見込まれて武田家の家臣になったとされる。
しかし信方は傲慢であり、武田家当主にのみ許された形式で戦勝式を行ったり、晴信に呼ばれても甲府へ行かないこともあったとされる。武田家が信濃で得た権益の多くは信方が手に入れた。信方の死後、晴信は板垣家に対して厳しい処置を取った。
そのため、信方は忠臣どころか謀反人であり、信玄にとって目の上の瘤だったのではないか、という説がある。ただし信方の功績と欠点については、共にその多くが江戸時代以降の書物に記されたものである。板垣信方の人物像については研究の更なる進展が望まれている。
信方の子孫(信憲系。信憲の息子・正信の代から、山内家への仕官を推挙した家老にあやかって乾姓を名乗っていた)に板垣(乾)退助がおり、戊辰戦争の際は新政府軍側の指揮官であった。退助は甲府侵攻の直前に板垣姓へ復姓(甲府侵攻のために京都を出発した日が信方の320年目の命日であり、後述の効果を見込んで復姓するよう新政府からの助言があった)。
甲斐国は徳川家の直轄地であり、住民も甲州勝沼の戦いまでは幕府側についていた(但し幕府の圧政により必ずしも一枚岩ではなく、武田信玄時代の治世を懐かしむ風潮もあった)。しかし、板垣信方の子孫が新政府軍側にいることがわかると「武田家遺臣が甲府に帰ってきた」と大歓迎している。
もし板垣退助が新政府軍側にいなかったら制圧後も新政府軍に反発する一揆が頻発していた可能性があり(直後、幕府側残党の煽動による大小切騒動が発生したが、目立った一揆はこれぐらいである。)、板垣氏の功績は大きい。
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最終更新:2024/05/30(木) 04:00
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