| OB | |
|---|---|
| 河埜敬幸 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 愛媛県八幡浜市 |
| 生年月日 | 1955年4月18日 |
| 身長 体重 |
179cm 78kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 内野手、外野手 |
| プロ入り | 1973年 ドラフト3位 |
| 引退 | 1989年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
1955年4月18日生まれ。愛媛県八幡浜市出身。4歳年上の兄、河埜和正も後にプロ野球選手として活躍する。
高校は兄の後を追うように八幡浜工業高等学校に進学。レギュラーとして活躍したが、甲子園大会には手が届かなかった。
1977年、5月頃からセカンドのスタメンに定着。セカンド以外にショートやサードでも出場して、打率.267、19打点、20犠打をマーク。
1978年、故障で出遅れたが復帰後はレギュラーに復帰し、規定打席に初めて到達。打率.246,3本塁打、23打点に加え、パ・リーグ最多の23犠打をマークした。
1979年、打率.300、13本塁打、55打点、25盗塁をマークスし、オールスターゲームにも初出場を果たした。
1980年、守備位置を固定されなかった影響か、打率.231とやや低迷したが、翌1981年は打率.272と復調。
1982年、セカンドとして全試合に出場し打率.277をマーク。
1983年からは1番打者を任され、4月23日の日本ハムファイターズ戦から5月13日の阪急ブレーブス戦にかけて15試合連続得点を記録。打率.258、11本塁打、44打点、16盗塁をマークした。
1984年、チーム事情でセンターへコンバートされ、不服ではあったものの全試合に出場。打率.294、14本塁打、76打点、17盗塁をマークした他、パ・リーグ3位の163安打を記録した。
1986年からはセカンドに戻り、1987年には規定打席に届かなかったが、打率.312をマークした。
1989年、ウィリー・アップショーの加入で出場機会が減少し、同年限りで現役を引退。
引退後はダイエー・ソフトバンクに残りコーチや合宿所の寮長を務めた。
ソフトバンク退団後はクラブチームの長崎セインツや独立リーグの紀州レンジャーズ、韓国の高揚ワンダーズ、社会人野球のカナフレックスでコーチや監督を務めた。
内外野多くのポジションを守った南海のオールラウンダー。守備だけでなく、勝負強さと小技を兼ね備えた打撃力や走力の高さなど、走攻守三拍子で高い技術を誇った。
守備につく際、守備位置まで全力疾走する姿が話題になった。普段から自然と足腰が鍛えられるだろうというアイデアからの行動であった。
生まれたときには体重1500gしか無い超未熟児であり、生死の境をさまよったことから、両親から「幸せに生きるだけでいい」という思いを込めて「敬幸」と名付けられたという。
| 通算:15年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1552 | 5798 | 5160 | 657 | 1387 | 85 | 467 | 141 | 159 | 31 | 423 | 25 | 469 | 122 | .268 | .325 |
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最終更新:2025/12/05(金) 20:00
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