「淡河定範」(おうご・さだのり 1539?~1579?)とは、鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の後裔を称する淡河氏の当主として、盟友にして義兄の別所安治と共に別所家を盛り立て、別所長治が織田信長に背く道を選んだ際は、羽柴秀吉・羽柴秀長兄弟の軍勢をゲリラ戦術を駆使して寡兵で破った播磨の楠木正成。
淡河氏は、鎌倉幕府副執権を務めた北条時房の所領だった淡河の地に地頭職として派遣された時房の子・北条時盛もしくは時盛の子・北条時治ら鎌倉北条一族の後裔を称し、淡河城を築いて周辺を支配した。
淡河定範は江見祐春の次男に生まれて淡河範政の養子となる。範政の兄・淡河範行が戦死し、範政も実子を得ぬままに病死した為、淡河定範が家督を継いだ。別所安治の妹を娶って弾正忠を拝命し、義兄を支えて別所家の播磨の覇権を不動にした。
別所安治が病死すると、まだ若い別所長治が当主となり、淡河定範は叔父として別所長治を後見する。実家の江見家が宇喜多直家に滅ぼされると、残った兄弟・一族を淡河家に迎え入れた。
足利義昭を奉じて織田信長が上洛すると、別所長治は別所重棟を派遣して信長と誼を結び、信長の播磨攻めの際には他の播磨国衆が毛利家につく中で織田家に臣従する。淡河定範も別所家に従い、織田信長の播磨平定に協力した。
しかし、もはや古臭くなっていた戦術を自信満々に唱えたら羽柴秀吉に虚仮にされたとする別所吉親の説得により、別所長治が織田家を裏切るとそれに従う。三木城への補給路となる淡河城を守備して、羽柴秀吉・羽柴秀長兄弟を迎え撃った淡河定範は、楠木正成ばりのゲリラ戦術を展開して、竹中半兵衛を擁する羽柴兄弟の軍勢を撃退した。
※その他「淡河定範」の詳細についてはWikipedeiaの該当記事参照の事。
別所長治が織田信長を裏切った事で、派遣された羽柴秀吉により「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めが始まると、淡河定範の居城・淡河城は別所長治の重要な補給線となった。淡河定範は黒田官兵衛の説得を受けるが、持ち前の義理堅さにより首を縦に振らず、羽柴秀長の攻撃をうけることになる。
一族郎党60人程と足軽300人程で迎え撃つ淡河定範は、車菱を敷き、逆茂木や大綱を張り巡らせて防備を固め、
牝馬一頭連れて来た者には報酬として三百文を与える。
馬はすぐに返す。
手勢を二手に分けて攻撃を仕掛けた羽柴秀長だったが、淡河定範が設置したトラップの数々にひっかかって攻めあぐね、騎馬隊を出したところ、淡河城より放たれた牝馬に牡の騎馬が撹乱させらてしまい、そこに淡河定範の突撃をうけて粉砕された。
弟の敗戦で次は羽柴秀吉が大軍をもって攻めてくるであろう…と予想した淡河定範は、小勢で立ち向かう事の限界を感じたのか、淡河城を焼き払って別所長治が籠もる三木城に合流する。
三木城に入った後は、餓えに苦しむ三木城内の者達の為に、羽柴秀吉旗下で毛利との補給線上を守備していた谷衛好を攻撃。守将・谷を討ち取った淡河定範であったが、羽柴秀吉の援軍により戦闘そのものは敗戦に終わり、手傷を負いながら従者と共に退却するも追いつかれる。敵を一旦追い払った後、従者達と共に自刃して果てた。
味方そして敵からも 「誠に惜しき良将かな」 とその知勇兼備の良将ぶりを讃えられ、三木市加佐には淡河定範戦死碑が建立されている。
しかし、戦場で自刃したとされる淡河定範であるが、毛利輝元の書状においては 「弾正殿御事、今御逗留に候」 とあるなどその最期は確定していない。播磨の楠木正成と呼ばれた男は、自らの死をも利用したのかもしれない……
本願寺家臣として登場し、一色家へと流れた後に別所就治が家老を務める星井家へ。
列伝にもはっきりと「別所家臣」と書かれているのに、二度の星井家に敗れて捕らえられても美希の政治力が低く義理が高い為になかなか登用に応じなかったが、一色家滅亡後に「あずさのことが心配だから」と言う理由で誘いに応じた。
一貫して二線級の戦闘要員といったところ。革新では知略72にまで上昇したが、天道以降は元に戻ってしまった。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
| 覇王伝 | 采配 | 63 | 戦闘 | 60 | 智謀 | 64 | 政治 | 32 | 野望 | 40 | ||||
| 天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
| 将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
| 烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
| 嵐世紀 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
| 蒼天録 | 統率 | 61 | 知略 | 69 | 政治 | 45 | ||||||||
| 天下創世 | 統率 | 59 | 知略 | 64 | 政治 | 44 | 教養 | 54 | ||||||
| 革新 | 統率 | 64 | 武勇 | 70 | 知略 | 72 | 政治 | 49 | ||||||
| 天道 | 統率 | 64 | 武勇 | 70 | 知略 | 60 | 政治 | 49 | ||||||
| 創造 | 統率 | 61 | 武勇 | 66 | 知略 | 60 | 政治 | 51 | ||||||
掲示板
3 ななしのよっしん
2012/02/07(火) 14:08:39 ID: t5OH5PFypu
死んだふりのエピソードとかも残されてるあたり
少なくとも奇略に富んだ武将ではあったんだろうね
4 ななしのよっしん
2013/09/18(水) 17:45:34 ID: eObdylrWO8
>>2
その軍馬輸送用説も実は根拠が無い
元々日本では古代から荒馬を軍馬として用いてきた実績があるのは多くの資料に残されてるし、戦国期になって足軽が戦闘のメインになっても、武将は馬術を習得するのが一般的、騎乗しながらの片手槍の習得なんかもされていた。
在来馬を見て「こんな小さい馬に鎧兜で武装した武士が乗って戦場を駆け回れるわけがない」なんてことを言う人がいるが、むしろ在来馬は西洋の大型馬に比べて力は強い(ただし遅い)。
源平合戦や南北朝時代のように騎馬武者が戦場の華になるようなことは無いにしろ、戦国時代にも騎馬隊があったのはほぼ間違いないと思う。
5 ななしのよっしん
2023/05/16(火) 10:18:05 ID: 8pSM3Qf5Kd
太閤立志伝2の軍学2で能力低いのに技能強め
三宅治忠も能力低いのに軍学3という
太閤立志伝2のスタッフに別所好きが居たのがよく分かる
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/21(日) 19:00
最終更新:2025/12/21(日) 19:00
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