秋元宏作(あきもと こうさく、1968年1月29日-)とは、東京都出身の元プロ野球選手(捕手)である。
| OB | |
|---|---|
| 秋元宏作 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 東京都文京区 |
| 生年月日 | 1968年1月29日 |
| 身長 体重 |
181cm 84kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 捕手 |
| プロ入り | 1986年ドラフト外 |
| 引退 | 2000年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
国学院久我山高等学校に進学。捕手としてプレーし、3年春の甲子園大会には4番捕手として出場したものの、初戦敗退。夏の県大会ではベスト4で敗退している。
卒業後、日本大学へ進学。ただ、野球部に入部することはなく、母校のコーチとして活動していた。1年の秋に西武ライオンズの入団テストを受け合格し、大学はそのまま中退している。
入団時の西武は黄金時代の真っ只中であり、絶対的正捕手の伊東勤がいたこともあり、実績の殆どなかった秋元の一軍出場は3年間で0に終わっている。ただこの時期に二軍で徹底的に基礎を学び、1年目のオフにはアメリカのマイナーリーグに野球留学で派遣されるなど、捕手としてのスキルを磨いていった。
1989年オフ、トレードで横浜大洋ホエールズへ移籍。背番号が空いていなかったことからコーチが付けるような83番が与えられた。
1990年、5月頃から一軍に定着し、ベテランの市川和正や谷繁元信らと併用される形で一軍に定着。この年は67試合に出場した。
1991年、背番号を39に変更。この年から、谷繁と併用起用が基本線となり、特に佐々木主浩登板時に谷繁に代わり守備から途中出場することも多かった。
1995年、近藤昭仁監督の信頼を得て自己最多の101試合に出場。打率こそ.200と低打率だったものの、キャリア最多の5本塁打をマーク。
1996年に新監督として大矢明彦氏が就任すると、谷繁を正捕手として起用したことで出場機会を減らしていく。1998年にチーム38年ぶりのセ・リーグ制覇・日本一のメンバーに名を連ねたが18試合の出場にとどまるなど、控えが定位置となっていた。
古巣の横浜や西武でバッテリーコーチを務め、森友哉や岡田雅利らに捕手としての基礎を叩き込んだ。
2022年から埼玉西武ライオンズの球団本部のファーム・育成グループディレクターに就任している。
打撃面や肩の強さはそれほど目立つ能力ではなかったものの、巧みなリードと守備の堅さに定評のあった捕手。
特に佐々木主浩からは信頼されており、佐々木登板時には「秋元さんに変えてくれ、谷繁じゃ自分のフォークボールは止められない」と、当時ブロッキングやリード面にやや難のあった谷繁に代わり、リリーフキャッチャー的な役割で起用されることも多かった。この経験が後の谷繁の成長につながっている。
| 通算:11年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 573 | 1220 | 1069 | 80 | 230 | 44 | 4 | 16 | 108 | 9 | 32 | 10 | 105 | 4 | 248 | 63 | .215 | .288 |
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最終更新:2025/12/05(金) 18:00
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