萩本欽一とは、かつて日本のお笑い界の覇権を取った経験を持つ現役大学生である。
1941年5月7日、現在の東京都台東区生まれ。愛称は「欽ちゃん」「大将」。
1970年代~1980年代のお笑い界を牽引し、現在のバラエティー番組を始めとするテレビ番組の基礎を築き上げたと言っても過言ではない伝説的なコメディアン。自身が手掛けた番組は必ずヒットしていたことがキッカケで「視聴率100%男」とまで言われた。
2015年に駒澤大学仏教学部に入学し、現在は現役の大学生として過ごしている。
駒澤高校を卒業後、東京・浅草の東洋劇場へと入団し芸人の道に進む。ここでは先輩芸人の東八郎などから指導を受けていた。上達したころにストリップ劇場の幕間コントでその腕を磨いていったらしい。
1966年、坂上二郎とともにコント55号を結成。それまでのテレビの常識を壊すように画面狭しと動き回り、「なんでそ~なるの!」などのギャグで一世を風靡する。この当時のお笑い界ではザ・ドリフターズと並ぶほど人気を二分し、『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』『コント55号のなんでそうなるの?』『ぴったしカンカン』などの人気番組を輩出するまでのものとなった。
コント55号で活躍する傍ら、『スター誕生!』にて司会業にも挑戦する。以降、ソロ活動でも人気を博し、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』では、"素人をいじる"という現在でも使われているバラエティ番組の手法を確立させた。ちなみに、『スター誕生!』の司会を受けた際に「司会には自信がないから、ちゃんと司会ができる女の子を付けてほしい」と言ったことが、現在で言うアシスタントが生まれるきっかけとなったと言われている。
その後、ソロ活動の幅を広げ、『オールスター家族対抗歌合戦』『欽ちゃんのドンといってみよう!』『欽ちゃんのどこまでやるの!?』『欽ちゃんの週刊欽曜日』など数多くの人気番組を受け持つようになる。自分の手掛けたお笑い番組は台本をもとに進めていくものの、本番で少し変えてみたり、そこで生まれたハプニングを活かしたりするという手法でハラハラドキドキする笑いを確立していった。この人気絶頂期に出演していた全番組の視聴率が100%を超えたという伝説から「視聴率100%男」という異名で呼ばれるようになる。また、自身が手掛ける番組からは、見栄晴、関根勤、小堺一機、はしのえみ、柳葉敏郎などの数多くの有名人を誕生させたことでも知られ、「欽ちゃんファミリー」と呼ばれるまでに成長していった。
しかし、視聴率100%男と呼ばれたことへのプレッシャーからか、1985年に『欽ちゃんの全日本仮装大賞』を除いたすべての番組を半年間ほど降板・休養することになった。半年後に復帰するものの、ブランクからか視聴率は回復せず、徐々にスポットライトが当たることは少なくなっていった。
1970年代にはザ・ドリフターズと人気を二分し、1980年代前半にはビートたけし・タモリと並ぶビッグネームだった欽ちゃんも、この休養期間を経た後に『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』などで台頭してきた明石家さんまと入れ替わるような形でテレビの第一線から撤退することとなり、影響力を低下させた。
2005年、かつては高校球児だった萩本は、野球の人気を復活させるためにと自ら球団を設立。茨城県に本拠地を置き、「茨城ゴールデンゴールズ」という名称で活動をスタートさせる。野球界でも持ち前の常識を覆す力を発揮させ、試合中にも関わらずマイクを持ちアナウンス係と掛け合いをしたり、女子選手やお笑い芸人を採用したりとあっと驚くような手法をどんどん取り入れ、その後の芸能人が野球チームを結成するブームの火付け役となった。その後とある事件で解散の危機に瀕するが、地元からの署名もありその危機を免れる。2010年12月12日には、後継に片岡安祐美を指名し監督を勇退する。
2015年には前述のとおり駒澤大学仏教学部に入学。20代前後の若者たちと共に、大学生活を過ごす傍ら、ネットでは視聴者参加型の生放送番組をスタートさせ、2015年8月から2016年7月まではニコニコ動画で、2016年8月から2017年4月まではFRESH!で毎週金曜日に土屋敏男と共に放送していた。
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最終更新:2024/12/31(火) 02:00
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