角富士夫(すみ ふじお)とは、元プロ野球選手である。
| OB | |
|---|---|
| 角富士夫 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 福岡県糟屋郡 |
| 生年月日 | 1956年5月31日 |
| 身長 体重 |
178cm 82kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 内野手 |
| プロ入り | 1974年 ドラフト2位 |
| 引退 | 1994年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
1956年5月31日生まれ。福岡県糟屋郡出身。中学時代に本格的に野球を始めた。
高校は福岡第一高等学校に進学。1年時からレギュラーとして活躍し、3年時にはエースとして県大会で49イニング無失点の快投で夏の甲子園大会に出場。甲子園大会では3回戦で敗退したものの、1回戦で本塁打を放った。
1974年ドラフト会議にて、ヤクルトスワローズからドラフト2位で指名され入団。入団直後に内野手に転向している。
1976年、25試合に出場。二軍ではジュニアオールスターに選出され、本塁打を記録している。
1978年、サードのレギュラーに定着。一時首位打者争いに絡むなど打撃が好調で、掛布雅之や高田繁らスター選手を抑え、オールスターゲームにファン投票サード部門1位で選出された。その後故障により離脱し、規定打席に到達しなかったものの、打率.273、7本塁打、29打点をマークし、ヤクルトの初優勝に貢献。日本シリーズでも本塁打を放ち、日本一にも大きく貢献した。
1981年、初めて規定打席に到達し、打率.281、18本塁打、46打点をマーク。
1984年、キャリア唯一の全試合出場を達成。打率.267、11本塁打、38打点をマーク。
1986年以降は、レオン・リーやボブ・ホーナーなど、同じポジションに大物選手が加入したこともあり、控えに回るシーズンが増えていったが、その度に堅実なプレーでスタメンの座を取り戻すというシーズンが続いた。
1990年、野村克也新監督から配球の読みを学び打棒が安定。初の打率3割超えとなる.301をマーク。
1991年、プロ入り17年目にして初の個人タイトルとなるゴールデングラブ賞を獲得。ただ、打率は前年より大きく下げた.235に終わり、シーズン後の契約更改ではタイトルホルダーながら減俸となってしまった。
1992年、ジャック・ハウエルの加入によりスタメンの座を明け渡したが、右の代打として活躍しチームの優勝・日本一に貢献。優勝前日の試合では代打スリーランホームランを記録している。
引退後もヤクルトに残り、2009年まで守備走塁コーチや打撃コーチを務めた後、2010年から2018年までフロントで活動。
ヤクルト退団後、東京国際大学で監督を務めた後、現在は社会人野球のIMF BANDITS富山で監督を務めている。
堅実な守備を武器にヤクルト一筋で活躍したいぶし銀。二桁本塁打を5度記録するなどパンチ力を備えながら、右打ちや犠打、進塁打などチームプレーに徹することができる点も特徴であった。
1986年以降は毎年のように同じポジションに大物が入団し、その度に控えや他のポジションに回されたが、それでも腐らずに試合に挑み20年に渡ってチームに貢献し続けた。
ドラフト指名前に太平洋クラブライオンズから指名の約束をもらっていたが、その前にヤクルトから指名されたためヤクルトに入団した。
| 通算:19年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1521 | 5196 | 4565 | 495 | 1196 | 128 | 489 | 19 | 205 | 30 | 376 | 20 | 614 | 121 | .262 | .319 |
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最終更新:2025/12/16(火) 10:00
最終更新:2025/12/16(火) 10:00
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