加世田氏は弟の矢八(景国)が継ぎ、自身は野村家(上士)に養子として入った。
明治維新後、近衛大尉に任官するが、征韓論を巡る西郷隆盛の下野に従って辞任。
中島健彦(第四課長兼務の一等警部)を最高責任者として、自身は四等警部(後に都合により三等警部に昇進)でありながら鹿児島警察署長(当時の鹿児島情勢を考慮すると警視総監に等しい)に就任。中島と共に県下の警察人事を決定、西南戦争勃発まで優れた行政手腕を発揮する。
明治9年、宮崎県が鹿児島県に合併された際、一向宗の禁令が問題化した。鹿児島では旧来より一向宗の禁令を行っていたが、宮崎にはそれが及んでいない。無理な改宗を要求すれば一揆の発生もありうるが、太政官との対立中に領内での揉め事は避けたい。
そこで忍介は西郷からお墨付きの許可を得て、反対派を抑えつつ一向宗を解禁。西郷が認めたとあっては反対派も手を出すことができない。無事に問題を解決したのである。
このことが後に桐野利秋らとの確執につながる(薩摩では小細工のような行為や口が達者な者は敬遠されていた。大久保利通などがこれにあたる。薩摩に優れた軍人が多く、政治家が比較的少ないのはこのためか)。
また、各地で新政府に対する反乱(神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など)が続く中、太政官が薩摩を攻めるという噂が広まっていた。その真偽を確かめるべく忍介は京阪神方面へ出向き、討薩が単なる噂に過ぎないこと、欧化政策が予想以上に進んでいること、西郷党の考えるような、太政官が「たちどころに吹き飛ぶ」ものではないことを理解した。
西郷一色に染まる薩摩で、決起の無謀さを訴えることなど自殺行為である。
当時の薩摩には唯一、私学校党に与せず、他者が激しく非難していた大久保利通や川路利良らを高く評価していながら西郷党から信頼されていた者として永山弥一郎(忍介とは戊辰戦争以来の付き合い、兄事している)がいるが、これは彼の抜群の軍功と勇敢さによるものである。
明治10年2月6日、薩摩で決起集会が行われた際、前述の永山弥一郎が出兵に異を唱えた(そもそも永山の下野自体が西郷と関係なく、私学校にも与せず、政府に対する見解も西郷党と異なる)。
このため、忍介にも発言の機会が与えられ、「西郷みずからが兵を率いるのではなく、兵600をもって海路で若狭湾に行き、折から在京中の天皇に西郷に対する召喚状を出させる」という提案をした。
他の提案の中で唯一現実性を持った案だったが、篠原国幹の「死ぬのが怖いのか」という一喝により議論自体が封殺(涙)されてしまった。
この後も方針を決める会議でいろいろと意見するが結局まとまらず、西郷の折衷案を採った結果、薩軍は徐々に政府軍におされて行くことになる。
西南戦争も佳境を過ぎ、薩軍の敗勢が決定的になってきた頃、ようやく忍介の策の一部が容れられる。
2000の兵を与えられた野村軍(奇兵隊)は日向の延岡に弾薬製造所を設置、募兵をしつつ各地に斥候を放ち活発な情報収集を行う。薩軍が情報収集と呼べる行為を行ったのはこのときだけである。延岡に後方指揮所を置き、豊後の竹田を攻撃・占領するが薩軍は南九州一帯に散っており、戦局は後退する。
忍介は山岳地帯でゲリラ戦を展開し各地で政府軍を翻弄、局所的勝利を上げるものの、2000の兵では限界があり結局薩軍は鹿児島まで後退する。
終始ほぼ負け戦であった西南戦争において、薩軍の中でチート的勝利を続けていた野村忍介の将器はもっと評価されるべきである。
鹿児島まで退く途中、桐野らに置き去り(涙)にされたり、軍議から外されたり(涙)した忍介だったがこの間も常に東上の持論は捨てなった。
城山まで西郷と行を共にするが、蒲生で正式に残留(涙)を命じられる。
1877(明治10)年9月24日、政府軍は城山に総攻撃し、西郷らは戦死・自刃した。
忍介ら「法廷で義を主張する」としたメンバーは政府軍に投降。西南戦争は集結した。
服役後、鹿児島学校(現在の鹿児島県立甲南高校)や鹿児島新聞社(現在の南日本新聞)を設立したが、政府で軍政両面で活躍することはなかった。
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最終更新:2025/12/11(木) 16:00
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