「難波田憲重」(なんばだ・のりしげ 1497 ~ 1546)とは、扇谷上杉氏の家臣として主君上杉朝定とサポートして後北条氏と戦った、戦場での和歌のやりとりに定評のある忠臣。
武蔵七党の一つ、村山党の金子高範の流れをくむ扇谷上杉氏の重臣・難波田正直もしくは難波田広定の子に生まれたとされている。
父同様に扇谷上杉氏に仕え、松山城の城主を務める上田政広(上田朝直の父)が後北条氏に寝返った際に、松山城に城代として入った。
後北条氏の台頭によって勢力が衰退する扇谷上杉氏を支え、当主の上杉朝定が居城を北条氏綱により追われた際は、松山城に向かい入れて戦い、扇谷上杉朝定と山内上杉憲政と古河公方・足利晴氏らが結託して、大軍勢を率いて北条綱成が籠もる河越城を包囲した戦いにも難波田憲重は参加した。
しかし、扇谷上杉氏の歴代家臣の中でも知名度はナンバーワンな名将・太田道灌が築城した河越城は簡単には落城せず、北条氏康の謀略と大軍に包囲という甘えから将兵の気に緩みが生じたところを北条氏康の奇襲を受けて、混乱する扇谷上杉の軍中において難波田憲重は奮戦したものの、主君・上杉朝定が討ちとられた後に、誤って古井戸に落ちて壮絶な死を遂げた。
※その他「難波田憲重」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
難波田憲重の主君である扇谷上杉氏の上杉朝興が没し、13歳の上杉朝定が後を継ぐと、武蔵国へ進出せんとする北条氏綱の軍を河越城で迎えうったが、総崩れとなった上杉朝定は河越城を捨てて難波田憲重が守る松山城に入り、北条氏綱の軍勢が、続けて松山城へと攻撃を仕掛けた際には、難波田憲重の活躍により退ける事に成功した。
この戦いの最中に、北条氏綱家臣の山中主膳が、一時退却しようとする難波田憲重に対して和歌問答を仕掛ける教養バトルをしかけた。
あしからじ よかれとてこそ たたかはめ など難波田の くずれ行らん
と、良かれと思って主君の為に戦うのに何故逃げるのかと問うと、踵を返した難波田憲重は、
君をきて あだし心を 我もたば すえの松山 波もこえなん
と、討死するような事があれば幼い主君の為にならず、松山城も北条軍に呑みこまれてしまうから、その程度の挑発にはのらないのだよ山中くん。と返した。
※その他「松山城風流合戦」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
▼history-reproduction「河越夜戦~乾坤一擲~」に登場。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける難波田憲重(難波田善銀)の能力一覧。
没年の都合で、信長が誕生した年からスタートのシナリオの無いものには基本的に登場しない。近年リストラ気味だったが、創造で久しぶりに登場。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
| 覇王伝 | 采配 | 65 | 戦闘 | 66 | 智謀 | 28 | 政治 | 43 | 野望 | 14 | ||||
| 天翔記 | 戦才 | 136(A) | 智才 | 50(B) | 政才 | 80(C) | 魅力 | 52 | 野望 | 47 | ||||
| 将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 50 | 戦闘 | 53 | 智謀 | 45 | 政治 | 47 | ||||||
| 嵐世紀 | 采配 | 49 | 智謀 | 42 | 政治 | 40 | 野望 | 12 | ||||||
| 蒼天録 | 統率 | 51 | 知略 | 56 | 政治 | 36 | ||||||||
| 天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
| 革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
| 天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
| 創造 | 統率 | 57 | 武勇 | 55 | 知略 | 61 | 政治 | 46 | ||||||
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最終更新:2025/12/13(土) 05:00
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