坂本九(1941年(昭和16年)12月10日 - 1985年(昭和60年)8月12日)とは、日本を代表する歌手の一人である。
神奈川県川崎市川崎区出身。愛称は「九ちゃん」。歌手の活動以外にも俳優・タレント・歌手・司会者・福祉と数多くの活動に奔走した。
「上を向いて歩こう」・「見上げてごらん夜の星を」・「明日があるさ」・「心の瞳」・「幸せなら手をたたこう」・「レットキス(ジェンカ)」・「涙くんさよなら」・「世界の国からこんにちは」など、後世に残る様々な歌を歌った。
特に「上を向いて歩こう」は、世界中で1300万枚の売り上げを記録した。
現代でも重要視されるヒーカップ唱法(非常に強く裏声をしゃくりあげ、独特のアクセントをかもす歌い方)を日本で最初に取り入れた歌手とされる。癖があるものの、のどかで優しい発音が彼の特徴である。
1985年(昭和60年)8月12日、日本航空123便墜落事故に遭遇。帰らぬ人となる。享年43。
概要
幼少期
1941年(昭和16年)12月、荷物の請負を行なっていた「丸木組」社長の坂本寛(ゆたか)とその妻の坂本いくの間に生まれる。9人兄妹のうち、9番目に生まれたことから「九(ひさし)」の名が与えられたらしい。
その後、戦争が激しくなると、母の実家である茨城県笠間市付近に疎開。疎開中、土浦駅付近で発生した事故に巻き込まれていたが、事故の寸前に他の客車へ移動していたため、事故死を逃れる。後々、この事を知らされると「笠間稲荷の神様が守って下さった」と想い、終生信仰した。その後柏木由紀子氏との結婚の折、笠間稲荷神社で挙式し、事故死後の遺体の決め手であったペンダントも、笠間稲荷にまつわるものだったという。
高校時代から二十歳前まで
日大横浜学園高等部在学中、両親が離婚する。九は母側に引き取られ「大島(母親いくの旧姓) 九」となる。しかし、それぞれの自宅は徒歩で通える程度の距離であったそうで、兄妹ともに変わりなく遊んでいたとのこと。
また、この頃からエルビス・プレスリー、バディ・ホリー、ペリー・コモなどの米国歌手に憧れ、校内でモノマネを行い、人気者に。特にエルビスのモノマネに関しては非常に上手かったと言われる。
1958年(昭和33年)5月にザ・ドリフターズ(当時は現在知られるようなコント主体のグループではなく、純粋なロカビリーバンドだった。まだいかりや長介や加藤茶などは加入しておらず)に加入。バンドやギターを担当し、ロカビリー歌手として第3回日劇ウエスタンカーニバルに初出演する。新人賞を受賞。同年11~12月頃脱退し、ダニー飯田とパラダイス・キングに参加する。
ジャズ喫茶を巡業し、ボーカルを主に担当。ひどいニキビ顔であったそうだが、男子・女子共にとても人気があったという。彼が歌っているところをマナセプロダクションの曲直瀬信子マネージャーに見出され、マナセプロに所属。
1959年(昭和34年)、ビクターから「何もいらない俺だけど・題名のない唄だけど」でデビューするが、ヒットせず。
「上を向いて歩こう」の快挙とその後
1960年(昭和35年)に「悲しき60才」が10万枚売り上げ、「ステキなタイミング」などがヒットする。これを皮切りに森山加代子とタイアップ、近所のお姉ちゃん・お兄ちゃんの印象で次第にテレビ等でも人気者となる。
そして1961年(昭和36年)8月~11月頃にNHK番組「夢であいましょう」内での「今月のうた」として永六輔作詞・中村八大作曲「上を向いて歩こう」を発表する。同年10月15日レコードが発表されるとたちまちヒット、当時の音楽雑誌「ミュージック・ライフ」によると1961年(昭和36年)11月~1962年(昭和37年)1月まで1位を独走する。
売り上げは相当であったが、当時の歌謡界において九の歌声は斬新であったそうで、作詞家の永六輔でさえボロボロに批判される始末、高くは評価されなかった。しかし、ひょんなことからこの評価は覆されることとなる。詳しくは「上を向いて歩こう」を参照されたし。
1961年(昭和36年)第12回紅白歌合戦に初出場。同曲を披露する。
二十歳代から三十歳代まで
60年代後半から1第19回(1968年)紅白歌合戦白組司会、1970年大阪万国博覧会での万博博委員に任命など、司会業の色が強くなっていく。
その一方で、あゆみの箱(障害児(者)のために映画俳優 森繁久彌・伴淳三郎が始めた募金活動)運動、手話運動、それにまつわる曲(永六輔作詞・中村八大作曲「そして想い出」、初めて手話を主体とした歌曲である)を発表するなど、福祉活動に力を入れる。
当時北海道夕張市を中心に流行していた小児麻痺のためのチャリティーショーにノーギャラで出演、それをきっかけに北海道札幌放送(STV)「ふれあい広場・サンデー九」に取り組むようになる。
1975年(昭和50年)、柏木由紀子と結婚。東京都目黒区に自宅を構える。
四十歳代から事故当日まで
1985年(昭和60年)「懐しきlove-song・心の瞳」をリリース。
当時歌手よりも司会を中心として活動していた九は、事故の直前8月9日に長年の盟友であった、中村八大のコンサートの際「もう一度6・8・9(永六輔・中村八大・坂本九のコンビとして囃された名)としてやり直したい、歌手としてやり直したい」という意志を伝え、中村と再度の意気投合を誓ったという。
8月12日、九はNHK505スタジオにて「秋一番!坂本九(NHK-FM)」収録を行い、「すてきなタイミング」・「上を向いて歩こう」・「For The Good Times(ペリー・コモ)」・「We are the world」・「親父」・「見上げてごらん夜の星を」・「心の瞳」・「懐しきlove-song」を歌唱。これが最期に九が人前に披露した姿であった。その後、大阪の友人の選挙活動の応援のため、小宮勝広マネージャーと共に羽田空港に向かい、伊丹行JAL123便に搭乗。午後6時56分に機体が御巣鷹山に墜落し、永眠。(日本航空123便墜落事故)
99時間後の8月16日に、家族らにより遺体が確認された。カセットテープを機内に持ち込んでいたため、遺言があるかと期待されたが、特に確認できなかったという。九が搭乗していた位置は2階右側前方席であり、墜落時には機体がほぼひっくり返る状態で墜落したため、遺体の損傷が激しく、胸の部分のみであり、その日も首にかけていた笠間稲荷神社の金のペンダントが突き刺さった状態でなんとか確認できたという。
その後
九が死去した後も2000年(平成12年)~2002年(平成14年)に歌詞が変更・追加されたものの「明日があるさ」が流行、若年者を中心とする「心の瞳」の合唱会、「上を向いて歩こう」が50年以上経った今でもカバー・合唱されるのは特筆すべき点であろう。
また、笠間市に疎開したことなどから、2007年(平成19年)に笠間市に位置する常磐線の岩間駅、友部駅、水戸線の笠間駅の発車メロディが「上を向いて歩こう」「明日があるさ」「幸せなら手をたたこう」「レットキス(ジェンカ)」に変更されている。
坂本九は、今でもどこかでにこやかに歌っているのかもしれない。
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