「大勝軒」は、ラーメン屋の店名の一つ。東京を中心に多数存在する。大きく4つの系統に分類でき、東池袋系と代々木上原系を除き互いに関係はない。
東池袋系(丸長系)
豊島区南池袋2-42-8にある1961年(昭和36年)創業の「大勝軒」をはじめとする系統。創業者は山岸一雄。本店は豊島区東池袋4-28-3にあったが2007年(平成19年)3月に閉店し、2008年(平成20年)1月に現在の場所に移転して再開した。地名から「東池袋大勝軒」、あるいは初代店主の名前を取って「山岸大勝軒」とも自称する。
自家製の太麺を大量に使い、豚ガラ、鶏ガラ、野菜、魚をベースにした濃い味のスープが特徴。80年代頃からラーメンの一ジャンルとして定着している「つけ麺」の発祥とされ、もっとも有名である。ただし東池袋大勝軒では「つけ麺」ではなく「もりそば」と呼ぶ。
元々、山岸一雄は従兄(代々木上原大勝軒のサイトでは又従兄とされているが誤りと思われる)である兄貴の坂口正安がラーメン屋として独立したいから手伝って欲しいという誘いをうけて丸長系の阿佐ヶ谷「栄楽」で修行し、その後兄貴と共に中野「大勝軒」を経営、兄貴が代々木上原に本店を移してからは中野店をまかされ、さらにのれん分けで東池袋「大勝軒」として独立した経緯がある。
開店当初から行列が出来る人気の店だったが、長年の苦労がたたり40代の頃に下肢静脈瘤で入院し、さらに1986年(昭和61年)に妻が倒れ死去すると夫婦二人での営業から弟子を多くとる方針に転換し、多数ののれん分け店が誕生した。また1990年(平成2年)に雑誌『DANCHU』で完全レシピを公表したこともあり、宇都宮「バカうまラーメン花の季」などはこれを元に生まれている。
レシピも包み隠さず修行期間も短いことから、店によってかなり味やサービスに差がある。これは本店でも同じ事が言え、日や時間によってかなりクオリティが異なってしまっているのが現状である。これは本店が東池袋の再開発のため閉店し、山岸引退後店主として仕切っていた「味の番人」こと柴木俊男が2007年(平成19年)12月1日に巣鴨「東池おはこ大勝軒」を開いた後、本店が「南池袋大勝軒」店主の飯野敏彦を招いて再開したという経緯も影響しているといわれている。
東池袋大勝軒本店は現在でも「丸長のれん会」に属しているが、東池袋大勝軒からのれん分けして生まれた店は「大勝軒のれん会」に属しており、代々木上原系とは従兄弟店のような関係である。
2015年(平成27年)4月1日 山岸一雄 心不全のため逝去
4ヵ月後、「大勝軒のれん会」に所属してた16人が飯野のやり方に不満を抱き退会して新たに「大勝軒 味と心を守る会」を設立、内紛が表面化、中野大勝軒の坂口光男(山岸の再従弟(はとこ)が仲介に入ったものの飯野が耳を貸さず失敗に終わり完全に真っ二つに別れることになってしまった。山岸さん天国でどう思ってるのか?
代々木上原・中野系(丸長系)
渋谷区上原1-17-11にある1951年(昭和26年)創業の「大勝軒」をはじめとする系統。創業者は坂口正安。地名から「代々木上原大勝軒」とも自称する。最初の本店「中野大勝軒」は中野区中野3-33-13にあるが、代々木上原に新本店を作った経緯があるため、「代々木上原系」や「中野系」とも呼ばれる。
丸長以来の伝統である自家製の太麺を使うが、スープは代々木上原に移って以降、客のニーズに合わせて和風だしをメインとしたより上品なものに変わっている。「つけ麺」もあるが、こちらでは「つけそば」と呼んでおり、東池袋系の「もりそば」とは全く味が異なる。
これらの系統は元々、長野で蕎麦職人をしていた青木勝治ら青木三兄弟と他2名が共同経営の形で1948年(昭和23年)に杉並区荻窪4-31-12で開店した荻窪「丸長」が発祥で、そこから青木保一の阿佐ヶ谷「栄楽」、青木甲七郎の川南「栄龍軒」、山上信成の荻窪「丸信」、坂口正安の中野「大勝軒」として分かれていった。
この経緯によりのれん分けした店もほとんどが「丸長のれん会」に属していることから、単にこちらの代々木上原・中野系大勝軒のみを「丸長系」と言うこともある。
坂口正安は戦前に日本橋人形町の蕎麦屋で修行をし、「丸長」「栄楽」を経て従弟の山岸一雄と共に「大勝軒」を開店した。その後、中野のバラックでは火災などがあった際に家族が危険などという理由もあったため、1954年(昭和29年)、代々木上原に一軒家を構えこちらを本店とし、中野は支店として山岸が営業した。
東池袋系の「もりそば」は元々山岸が中野大勝軒の店長時代におそらく丸長時代からの伝統であったまかない(山岸は栄楽からの入店であるが、このまかないはそれ以前からあったという)を元に開発したものであるため、中野大勝軒をつけ麺発祥の地とすることもある。
永福町系
杉並区和泉3-5-3にある1955年(昭和30年)3月創業の「大勝軒」をはじめとする系統。創業者は草村賢治。地名から「永福町大勝軒」とも自称する。
量が多めの縮れ麺に豚骨魚介系のスープで、表面がラードで覆われており最後までアツアツなのがが特徴。
こちらも人気店であり、東池袋系に次いでのれん分け店が多く、特に千葉県船橋市西習志野には永福町系の「北習志野大勝軒」が、船橋市習志野台には東池袋系の「北習大勝軒」があったりする。
草村賢治は新潟の農家の三男として生まれるも、一家で上京して製麺所を営み、家の手伝いをしながら成長。26歳の時にラーメン屋を構えた。ゆえに永福町系の店は基本的に「大勝軒草村商店」製の麺を使用しているところが多い。
ちなみに採用条件は非常に厳しいが、採用されると最初の三ヶ月間の見習い期間でも非常に高給だと言うことでも知られている。またかつては「氷の無料サービス」も行っていた。1962年(昭和37年)に製氷機を導入したところ、子供が熱を出したときに氷を分けて欲しいという要望があったためである。
人形町系
中央区日本橋人形町2-22-4にかつて存在した、1912年(明治45年・大正元年)創業の「中華料理 大勝軒」をはじめとする系統。「人形町大勝軒」と呼ばれることもある。
ただし本店は5代目店主が1988年(昭和63年)に業務転換し、喫茶店「珈琲大勝軒」となってしまっている。その近くの日本橋人形町3-1-9に本店で26年間チーフを務めていた人が1987年(昭和62年)に開店した「中華料理 大勝軒」があり、ここを直系と見る人もいる。
いわゆる非常に一般的な街の中華料理屋であり、ラーメンというか中華そばもオーソドックスな東京ラーメンである。店名は1905年(明治38年)に終結した日露戦争に大勝したことに由来すると言われており、第二次世界大戦後の混乱のなか生まれた他の大勝軒とは対照的である。
人形町系にはのれん分けした店が都内を中心に10店舗ほど存在する。かつて豊島区要町にあった大勝軒もその一つと思われる。大抵は「中華料理 大勝軒」か「中国料理 大勝軒」という店名である。
中でも、かつて中央区日本橋浜町にあり、現在は中央区新川1-3-4にある、1914年(大正3年)創業の「中国料理 大勝軒」(「茅場町大勝軒」あるいは「新川大勝軒」と呼ばれる)は、テレビ朝日『シルシルミシル』において、東京に現存する最も古いラーメン店として認定された。日本におけるラーメンの原点は1910年(明治43年)開業の浅草「来々軒」といわれているが、すでに存在しないためである。
その他
他にも上記の大勝軒とは全く関係ないか、明らかにインスパイアされたような店も存在する。
インスパイア店の例の一つは、板橋区中丸町37-6にある「中丸町大勝軒」(だいしょうけん)で、明らかに東池袋系だが系列の店で修行はしていないといい、麺もかなり細い。名前の読み方までも違う。
例のもう一つは中央区銀座3-1などにある「麺家 大勝軒」で、永福町系のラーメンに似ているが実は「元祖札幌や」などの南京軒食品株式会社が経営する店であり、永福町大勝軒とは無関係である。
関連動画
関連商品
関連項目
関連サイト
- 東池袋大勝軒 http://www.tai-sho-ken.com/
- 大勝軒 味と心を守る会 http://www.taisho-ken.net/
- 代々木上原大勝軒 http://www.taishoken.co.jp/
- 永福町大勝軒 http://eifuku-taishouken.com/
- 茅場町大勝軒 http://www.taisyoken.com/
- 中丸町大勝軒 http://www.daishoken.eei.jp/
- 南京軒食品(麺屋大勝軒) http://nankinken.fsys.co.jp/
- 大勝軒グルメナビ http://taisyouken-navi.net/
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