桶川ストーカー殺人事件(桶川女子大生ストーカー殺人事件)とは、1999年10月26日に発生した殺人事件である。警察のあまりにも杜撰な対応が、被害者の死を招くという最悪の事態を招いた事件として知られる。
※以下、被害者とその関係者の実名は差し控える。
概要
1999年10月26日、埼玉県桶川市のJR桶川駅前(おけがわマイン付近)で発生。
元交際相手の小松和人(当時27歳)らにストーカー行為をされていた女子大生A(当時21歳)が、小松の実兄を含むストーカーグループに、白昼堂々ナイフで刺殺された事件である。
被害者家族は殺害の4ヶ月以上前から、加害者グループによるストーカー行為を警察(埼玉県警察上尾警察署、以下上尾署)に何度も訴え、加害者告訴にまで踏み込んでいたが、警察がろくに取り合おうとしなかった(どころか、告訴そのものを揉み消そうとしていたことが後に明らかになる)末に発生してしまった事件であり、遺族および関係者が口々に「被害者は加害者と警察に殺された」と断言する所以である。
後にこうした怠慢な捜査態勢や被害者家族への不適切な応対などが浮き彫りになるにつれ、県警および上尾署は相当のバッシングを受け、一定の非を認めるような発言もあった。が、遺族による国家賠償請求訴訟ではこれらを完全に否認し、遺族から押収したまま未返還の(つまり遺族側では再検証しようのない)証拠物件を都合よく引用しては亡き被害者の心証を貶めることまでした。結局、この訴訟で「もし上尾署がストーカー行為を適切に捜査していれば、殺害事件は発生しなかった」という遺族の主張は、前半のストーカー行為への捜査怠慢のみが認められて終わった。
また殺害事件発生後、警察は1,000人体制での大掛かりな捜査を行ったが、事件の全体像の把握から犯人グループの特定に至るまでの尽くが、いち写真週刊誌記者の少数精鋭チームの地道な足取り調査に完全に出し抜かれるという何ともお粗末な結果となり(しかも事件の重大さに気付いた記者チームは、独自に関係者と信頼関係を築いて入手した貴重な情報の数々を警察へ提供しては、捜査方針の転換を強く促してきた。特に犯人グループの情報については、雑誌を目にした彼らが高飛びする危険性もあるため、掲載には慎重に次ぐ慎重を期していた。にも係らず警察が犯人逮捕に動き出したのは、痺れを切らした記者チームが通告通りに彼らの写真を公表した後のことであり、しかもストーカー行為の主犯は既に逃げた後だった)、この事も大いに批判の的となった。
国会でも大きく採り上げられ、「ストーカー行為等の規制等に関する法律(ストーカー規制法)」が制定された要因でもある。が、その後も逗子ストーカー殺人事件や小金井ストーカー殺人未遂事件といった法の抜け穴を突いた重大なストーカー犯罪は発生し続けており(前者は電子メール、後者はSNSがストーカー規制法の適用対象外だった)、この事件での教訓がきちんと生かされているのかどうかは甚だ疑問であろう。
2002年10月に日本テレビ系列の「スーパーテレビ情報最前線」で、2003年12月にテレビ朝日系列の「土曜ワイド劇場」でドラマ化された(ソフト化はされていない)。近年では2012年9月に日本テレビ系列の「ザ・世界仰天ニュース!!」で採り上げられて話題になった。
ストーカー行為が始まるまで
1999年1月、被害者の女子大生Aが、ゲームセンターで小松和人と知り合い、交際がスタート。
しかし、小松和人はAに対して、「誠」と言う偽名を使用していたほか、年齢を23歳と偽った。
また職業は外車ディーラーと名乗っていたが、実際は和人の兄である小松武史(本業は消防士)と風俗店を経営していた。
しかし、その嘘も2月から3月にかけてバレると、和人は以下のような異常な行動に走る。3月末には既にAは家族やごく親しい友人たちに向けて秘密の遺書をしたためている。
- 高価なプレゼントを一方的に贈り、Aがそれを拒否すると、一方的に暴力を振るう。
- Aが和人の自宅に訪れたところ、室内が隠し撮りされている。それを指摘すると逆上し「これまでプレゼントした分(のカネ)を風俗で働いてでも返せ。さもなくば家族にバラす」と脅迫する。
- 30分おきにAの携帯電話に電話し、犬の散歩をしている旨を伝えると、「俺より犬のほうが大事とはどういうことだ? その犬を殺すぞ!!」と恫喝する。
- 携帯電話に出ないと、Aの自宅や友人にまで電話をする。が、電話番号は和人には教えていないはずである。和人は興信所を雇ったりAの一部知人に金品をバラ撒いたりしてAのプライベートの情報を手に入れていた。
これらの行為に恐怖心を抱いたAは和人に対して別れを切りだすが、和人は「家族をめちゃくちゃにしてやる」などと脅迫し、交際の続行を強要する。
Aは周囲のごく親しい者たちに「和人に殺されるかもしれない」等と洩らしはじめる。そして和人はAに対する執拗なストーカー行為を更にエスカレートさせることになる・・・・・・。
殺人を起こすまで
- 6月14日
和人と武史らが、上尾市内のAの自宅に押し入ってAを脅迫して現金500万円を要求するが、Aの父親に追い返される。 - 6月15日・16日
Aとその両親が隠し撮りしたテープを持参し、上尾署に相談するが民事不介入を理由に追い返される。
この日から、Aの家に無言電話がかかるようになる。
また、武史は風俗店の雇われ店長である久保田祥史に(殺害を含めた)Aへの処理を依頼する。 - 7月5日
和人は武史に久保田への報酬である2000万円を渡した上で、自分はアリバイ作りのために沖縄へ逃亡する。 - 7月13日
Aの自宅周辺および学校に事実無根の誹謗中傷のビラがばらまかれる。 - 7月29日
再び上尾署に相談し、名誉毀損で告訴状を提出。しかし、対応した二課長は難癖を付けてなかなか受理しようとせず、受理後も件のビラを見て「いい紙を使ってますね」などと無神経な応対を繰り返す。 - 8月23日・24日
Aの父親の勤務先などに、事実無根の誹謗中傷の手紙が800通も届く。 - 9月7日
上尾署員が手書きで告訴状をただの被害届に改竄。ちなみに証拠品のビラも密かに処分されていた。 - 9月21日
上尾署巡査長がAの母親に対し、今の所は告訴を一旦無かったことにして、犯人が捕まってからでも告訴は間に合うとして、事実上の告訴取り下げを持ちかける(ミステリ作家で元キャリア警察官の古野まほろ氏の著書『事件でなければ動けません』(幻冬舎新書)によると、この説得は「警察部内の実務テクニック論としては(中略)『告訴の取下げ』を意味しません」とのことで、「女子大生の母親は文字どおり・言葉どおりの『告訴取下げ要請』と理解しました。無論、非は全て警察にあります」としている。※以上、斜体が引用部分(本書61~62頁より)。アンダーラインは原文では傍点。太字は引用者による強調)。
刑事訴訟法により一度取り下げた同内容の告訴は二度と行えないことを母親は知らなかったが、この申し出をきっぱり拒否する。この説得の意図としては「(告訴を受理すると)厳しい業務管理を受ける」(前掲書)ため、署内の慢性的な人員不足の中で可能な限り業務タスクを軽減することにあったようだ。と言っても肝腎の告訴状は既に存在しないのだが。 - 10月16日
深夜、Aの自宅前に大音響を鳴らした車2台が現れる。通報するも、パトカーが来る前にまんまと逃走。 - 10月23日
久保田らは自宅前でAを見張り、12時に桶川駅に来たAをアーミーナイフで殺害して逃亡。
上尾署は対策本部を設置したが、あたかもAにもこうなって当然の非があるかのような説明を(笑顔を交え)行う。
この結果、警察と各社マスコミによって、虚実入り乱れてのデマ報道合戦が行われることになった。
報道の動きと犯人の行方
当初多くのマスコミは遺族の下へ連日詰め掛け、娘を亡くした被害者家族らに対し、人権を無視するような激しいインタビュー・報道合戦を行った上、Aが「ブランド狂いだった」「風俗店員だった」等の過度に誇張したデマを流し、警察も自らの不手際を握りつぶすためかこうした報道を否定しなかった。しかし、このような流れを疑問視した一部のマスコミによって事件の実像が明らかになる。
- 11月
写真週刊誌「フォーカス」の清水潔記者が事件を特集。内容はストーカーグループの前代未聞の異常性を浮き彫りにしたものであった。(なお余談だがこの清水記者は、のちに日本テレビに移籍すると「足利事件は冤罪」という報道特集を行い、無期懲役だった人物を再審無罪へと導いている) - 12月
警察が1000人体制での捜査にも関わらず有力な手掛かりをろくに得られない中、清水記者のチームは地道かつ慎重な取材により犯人グループを特定し「フォーカス」誌上で発表。
19日、埼玉県警が武史と久保田ら3人を逮捕。しかし先述の通り、和人は殺害事件前から沖縄に逃亡中であった。 - 2000年1月16日
名誉毀損で武史と久保田ら含む12名を逮捕し、和人を指名手配(容疑はあくまでも名誉棄損) - 1月27日
和人の水死体が屈斜路湖畔で発見。遺書には泣き言と和人の両親に宛てた保険金関係のことしか書かれておらず、Aやその両親への謝罪は一切無かった。死体の様子や状況から自殺と考えられているが・・・。
上尾署員への処罰
- 2000年1月
「フォーカス」誌に県警の杜撰な捜査を指摘する記事が掲載される。 - 3月4日
テレビ朝日系「ザ・スクープ」で事件が放送される。 - 3月7日
その放送を視聴した竹村泰子民主党議員が国会でこの事件を採り上げ、林則清警察庁刑事局長に質疑。 - 4月6日
埼玉県警が謝罪。告訴状を改竄した上尾署員3名が懲戒免職。ほか上司5名が1~4ヶ月、減給5~10%となった。 - 9月7日
元上尾署員3名に対して執行猶予3年の懲役刑の有罪判決が下された。 - 10月
(上尾署で最初にAに熱心に応対した元刑事で、事件後に交番勤務に左遷されていた巡査部長が、事件当時は上尾署員だった者への脅迫容疑で逮捕された後、県警警視(事件当時は上尾署次長で減給処分とされた)の住むマンションの放火容疑で再逮捕される。後に有罪となるが、獄中で自殺。この再逮捕に不審を抱いた別の刑事も後に自殺したという)
犯人グループへの処罰
- 2001年7月17日
久保田に懲役18年、見張り役の伊藤嘉孝に懲役15年の実刑判決が下される。 - 2002年6月27日
車の運転手役の川上聡に懲役15年実刑判決が下される。 - 2006年9月5日
武史に対して、最高裁第二小法廷で無期懲役が確定。
なお、一連の事件の主犯である和人に関しては、名誉毀損罪の共犯とされたが、殺人罪の共犯とはされなかった。
その後
- 2000年10月26日
遺族が殺人や名誉毀損に関与した加害者およびその家族に対して損害賠償請求訴訟を起こす。 - 2000年11月24日
「ストーカー行為等の規制等に関する法律」が可決。 - 2000年12月22日
遺族が埼玉県警に対し、国家賠償請求訴訟を起こす。
ところが裁判になった途端、埼玉県警は先に述べたような意味不明な反論をし始める。 - 2003年2月16日
埼玉県警側に遺族に対して、計550万円の支払いを命じたが、双方とも控訴。 - 2005年1月26日
控訴を棄却。後の最高裁でも上告が棄却したため、判決が確定。 - 2006年3月31日
民事訴訟では加害者側に対して、計1億250万円を支払いを命じた。
和人に関しては、先ほど述べた通り、刑事訴訟では殺人罪の共犯とは認定されなかったが、民事訴訟では殺人の責任があるとしている。
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