さとうきび畑は、以下のものを指す。
本記事では、2を解説する。
さとうきび畑は、作曲家・寺島尚彦により作詞作曲された楽曲。第二次世界大戦末期の沖縄戦で父を失い、父を知らない子が、その父を探すためさとうきび畑に行くというテーマであり、楽曲中で66回も繰り返し登場する風の音『ざわわ』が特に印象的な楽曲である。
多くのアーティストによって歌われてきた楽曲であり、とりわけ最初にレコード化した森山良子のバージョンは知名度が非常に高い。
概要
1967年に寺島尚彦によって作詞作曲された楽曲であり、その着想は3年前に寺島が占領下の沖縄に訪れた際の出来事に遡る。寺島が沖縄戦終結の地とされる摩文仁の丘に案内されると、案内人はこういったのだという。
「あなたの歩いている土の中に、まだたくさんの戦没者の遺骨が埋まったままになっています」
寺島尚彦 「さとうきび畑」の作詞・作曲者、死去 | 時事用語事典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス, 2023/06/23閲覧
寺島はこの言葉を聞いて、美しく広がる青空、太陽、そしてさとうきびすべてがモノクロームと化し、戦没者たちの怒号と嗚咽が聞こえたという。そして、そんななかでも轟然と吹き抜ける風が彼の印象に残った。
「ざわわ」という音は、1年半の寺島の苦悩から産まれた。「ざわざわ」ではうるさすぎ、「さわさわ」では優しすぎる、そう考えた寺島がある日これを思いつき、これを繰り返すことで強烈な印象として示すことに成功した。おそらく、この楽曲を読者諸兄らも『さとうきび畑』ではなく『ざわわ』として認識していよう。
こうして、「父の顔を知らぬ子が、鉄の雨に打たれて死んだ父の面影を探しに、さとうきび畑に出かけていく」という物語が出来上がった。66回にも渡る「ざわわ」とともに完成したその楽曲は、10分を超え、寺島自身テレビやラジオに取り上げられることは少ないだろうと考えていた。
しかしベトナム戦争の激化、そして寺島と親交のあったアーティスト・森山良子をはじめとした多くの歌手によって歌い継がれ、今では日本国民ならば誰しもが知る楽曲のひとつになった。また、明石家さんま主演の戦時中の沖縄を描いたドラマ『さとうきび畑の唄』の着想元にもなり、そのテーマソングにもなった。
寺島が次に沖縄に赴くまで、30年以上かかったという。寺島は、自身が沖縄にどう思われているだろうと不安だったのだという。
この楽曲を歌ったアーティストとして最も著名である森山良子もまた、最初にレコーディングしてから30年は歌うことをやめていたという。戦争の悲惨さを歌う歌詞でありながら、自身が戦争を知らないために歌うことに自身が持てなかったのだとか。しかし湾岸戦争が起きると、恋愛ばかり歌っている場合ではないと『さとうきび畑』を歌うことを決めたのだという。
ちなみに最初に歌ったのは田代美代子。田代と森山以外にも、『みんなのうた』でちあきなおみ、堀江美都子が歌唱し、その他松浦亜弥、夏川りみなど数多くのアーティストが歌唱してきた。森山の実子である森山直太朗も、母と共に歌ったことがある。なお上述の通り本楽曲は長いため、披露の際にはショートバージョンにされることが多い。
2012年には読谷村のさとうきび畑の一角に歌碑が建立された。この場所は1945年4月1日に米軍が最初に上陸作戦を行った地域である。つまり、この歌碑、そしてその周りのさとうきび畑の下には多くの戦没者が眠っている。
そして、今もなお地球上からは戦争はなくならない。父を知らぬ子は今日も産まれてくる。この悲しみは消えない。
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