駆逐艦秋風虐殺事件単語

クチクカンアキカゼギャクサツジケン
2.6万文字の記事
  • 6
  • 0pt
掲示板へ

駆逐艦秋風虐殺事件とは、1943年3月17日または18日[1]に発生した、大日本帝国海軍による民間虐殺事件である。

「秋風事件」などとも言われる。英語圏では「Akikaze Massacre」などと呼称されている。

概要

第二次世界大戦中、ラバウルに向かってドイツ人宣教師らなどを含む多数の外民間人ら数十名を移送していた大日本帝国海軍駆逐艦秋風」上において、何者かの命に従って日本軍人らがその民間人ら全員を殺処分した事件。

「ビハール号事件」などと並ぶ、大日本帝国海軍歴史上の汚点といえる。艦上で行われた非戦闘中の殺事件としては、他にも駆逐艦」や「巻」でミッドウェー海戦時に捕虜として収容していた敵軍人を処刑した事件などの例はある。しかし本事件と「ビハール号事件」では殺した相手が民間人であったことが特異な点である。さらに「撃沈した敵国商戦に乗っていた敵国人を一度収容した後に殺した」ビハール号事件とべて、本事件では「移送中の民間人であり、しかもその中に同盟人を多数含んでいた」という奇妙な点がある。

事件当時秋風に乗していた者が戦後に尋問を受けており、その供述から「殺すべしとする命を受け取った艦長らが顔色を悪くして不本意だと言っていたこと」「殺処分の過程について」「犠牲者中には幼い子どもも含まれていたこと」「殺当日の日本軍人らが供物をげて読経を行うなどの慰霊式を行っていたこと」「しばらくしてこの殺事件の報告を受けた「鎌田[2]や参謀らが「非常ニ驚駭シ痛」していたこと」など、当時の状況に関する情報が得られている。

それらの供述書類の日本語原文やその英訳要約書類などについてオーストラリア政府が保管し、デジタル化画像を同国立公文書館のウェブサイト開しているために現在では原資料がネット上で閲覧できる(本記事「関連リンク」参照)。

移送されていた民間人は日本軍と敵対していたわけではないようだ。移送前に民間人らと現地でしくなっていた日本軍人がおり、殺事件について戦後連合による取り調べの場で初めて知って衝撃を受けて落している(本記事「一ノ瀬吉の言」参照)。「秋風」の艦上でも当初はミルクパンを供されるなどそれなりの待遇を受けていたようだ(本記事「石神信一の言」「髙橋六の言」参照)。

にもかかわらず、虐殺事件が起きてしまった。「なぜ敵対していた訳でもない民間人、しかも多くは同盟であるドイツ民を含む人々を虐殺するような命が出されてしまったのか」については、現在でも結局不明瞭なままとなってしまっている。命を受け取った秋風の艦長らが戦死してしまっていたために、戦後連合軍の調において事情を知っていたかもしれない彼らを尋問することができなかったのである。

さらに、戦後に行われた戦犯裁判においても「責任にあったか」については大日本帝国海軍の軍人の間同士で「押し付け合い」のような形となり、結局当初責任者と疑われて被告人となった人物らが「実は責任者ではなかった」と立して無罪になったが、その時点で裁判が集結してしまい最終的に有耶耶になってしまった。

されたドイツ人宣教師追悼しているドイツ教会ウェブサイト(本記事「関連リンク」参照)などでは、「宣教師らが現地で負傷したアメリカ人の治療なども行っていたため、スパイとして疑われてしまったのではないか」という推測を述べている。

また、秋風の乗員らが抱いていた被害者らの籍への認識が「イギリス人らと、その使用人たちとしての中国人ビルマ人と、少数の現地人。ドイツ人も混ざっているかもしれない」「敵国人ではあるが民間人」といった程度のものだったという言があり(本記事「髙橋六の言」参照)、この認識もした可性がある。

証言の例

言資料のうち、一部を抜して紹介する。「殺について関連する記述のある、日本語手書き宣誓言書類」を中心としている。

ただし、「日本語の書類はいが、殺に関して具体的に供述しているもの」(髙橋六の言)や「殺について直接関係する供述ではないが、被害者らと日本軍人らの関係について参考となる内容が含まれるもの」(一ノ瀬吉の言)も例外として掲載している。

以下引用部内の「●」は、元の資料から転記する際に、画質不良手書き文字故の曖昧さ、古い表現の理解不足などで判読できなかった文字である。本記事の読者の方で、元の画像を確認して文字が判読できた方は当該部を更新頂きたい。

基本的に可な限りそのまま転記しているが、元資料では「文章の切れだが文字の間に隙間がい」ことが多く読みづらいため、文章の切れスペースを付加した部分がある。

甲斐彌次郎の証言

オーストラリア国立公文書館所蔵、シリーズMP742/1」内、コントロールシンボル336/1/1444 PART 2」、表題『"Akikaze" Massacre - Reported killing of civilians 18.3.43 [also murder of internees at Kavieng] Akikaze massacre - sub-file to MISC 1 - Statements, interrogations, affidavits etc.exit』(アイテムID30112609」)、64-68ページより転記。

宣誓書

『良心ニ従ヒ実ヲ述べ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ』

昭和十八年三月十六日頃私ハ命ニ依リ秋風ニ便カイリル」発「ラバウル」ニ出張中「ロレンガウ」「キヤビエン」ニ寄港シテ三月十八日頃「ラバウル」ニ到着 約十日間滞在後駆逐艦ニ便シテ「ウエワク」ニ改着シマシタ 其ノ間ノ出来事ヲ記憶ヲ呼起シ茲ニ記述シマス

私ノ「ラバウル出張的ハ在「ラバウル」関係海軍機関ニ着任挨拶、「ラバウル」方面状況視察デ序ニ「カイリル」ヨリ秋風ニ便シ「ラバウル」ニ輸送サレル第三人ノ世話ヲセヨト謂フコトデアリマシ

時私ノ身分ハ海軍大尉デ第八海軍建設部ニ●、第二特別根地隊部附、「ラバウル海軍運輸部ニ●デアリマシタ 出張鎌田ヨリ直接受ケマシタ 多田野席参謀矢倉次席参謀モ論承知ノデス 関係●●ハ「カイリル」●泊中ノ秋風艦上ニテ便 第三人ト共ニ矢倉参謀ヨリ直接艦長ニ引渡サレマシタ 第三人ハ陸上テ人員調ベラレテ手荷物各自五個●ト共ニ「ダイハツ[3]」ニテ秋風ニ積込マレマシタ 私ハ「ウエワク」部ト陸上テ人員調ベノ時ニ便第三人ノ名簿ヲミマシタ 矢倉参謀ハ秋風出港直前ニ退艦サレマシタ 「カイリル」デ便シタ者ハ●●第三人約二十六、七名デ男ノヨリ女ノガ多カツタ様ニ記憶シテオリマス 支那人ノ子供ガ二人 一人ハ漸ク歩ク位ノ程度一人ハ七歳位デ男ノ子ト女ノ子デ女ノ宣師ニ伴ハレテオリマシタガドチラガ男デアツタカ記憶ニ残ツテオリマセン 時「カイリル」ニハ第二特別根地隊ノ派遣隊ガアリマシタガ其時ノ指揮官ノ名ハ記憶シテオリマセン 「カイリル」で艦シタ第三人ノ内老齢ノ宣師「ビシヨツプ」𠀋デ他ノ人名ハ記憶シマセン 翌日秋風ハ「ロレンガウ」ニ入港シテ第三人四十名日本海軍々人及軍属約十名ヲ搭載シマシタ 秋風ハ港内ニ錨泊シテオリマシタノデ右ノ人々ハ「ダイハツ」デ荷物ト共ニ艦ニ運バレテマシタ 私ハ派遣隊長ノ名モ便シテ日本海軍々属軍人及第三人ノ名モ知リマセン 第三人ハ大部英語デ話シテヰマシタガ間ニハ独語、語デ話シテヰル者モアマシタ 「ロレンガウ」便ノ第三人ニハ艦首ノ兵員室ヲアテ「カイリル」便ノ第三人ニハ艦尾ノ兵員室ヲアテテ居住ニ供サレテヰマシ

「ロレンガウ」便日本海軍々属軍人ハ端艇甲ニ起居シ私ハ食事ハ士官食堂デ執リ暑気ガイノデ起居ハトシテ甲上ニ移動寝台ヲ積出シテ過シマシタ 三月十七日頃ノ夕刻秋風ハ「ロレンガウ」ヲ出港 翌日午前十時頃「カビエン」到着 間モナク出港シマシタ 陸上ヨリハ連絡艇リ直グ●リマシタ 「カビエン」ニテハ便者ナシ 出港ノ時艦長[4]ヨリ次ノコトヲ知ラサレマシタ  第八艦隊ノ命ニ依リ艦中ノ第三人ヲスルト 其ノ時[5]及艦長ノ顔色ハ大変悪ルク心配シテヰル様子デアツタ 不本意ダガ命ダカラ仕方ガナイトモ艦長モイツテヰマシタ 私ハ如何ナル様式デ命タカ又如何ナル理由デ第三人ヲサレルカルコトハ出マセンデシタ

秋風通過シテ南下シマシタ 其ノ途中デ艦尾兵員室ノ第三人ハ艦首兵員室ニ移サレマシタ 続イテ日本人便者及ビ私モ艦首ノ方ヘ移リマシタ 艦ノ後方デハ兵員ノ手デ準備ガ進メラレ艦尾ニ二方位製「プラツトホーム」ヲ設ケ支柱ト両側ニハ「ロープ」をリテアリヨリ艦尾ノ甲上両舷共「キヤンバススクリーン」ヲ二個所ニリ前方ヨリ後方ノ見透シガ出ヌ様ニシアリマシタ 之ハ殺ガ終了シテ後現場ヲ見テ知リマシタ 正午前ニ中食ヲ了シマシタ 士官食堂ハ艦ノ下方ニ在リマシタ 正午過ギヨリ殺ガ「カビエン」南方洋上約六十浬ノ地奌ニテ実施サレマシタ 艦長、航長等ハ艦ニ居マシタ先任校ガ艦尾デ揮ヲシテヰルコトヲ兵員カラ聞キマシタ 艦ト艦尾トハ屡々連絡ヲトツテ居タ様子ガ見エテヰマシタ 前方ヨリ艦尾ノ状況ハ見エズ又機械ノ音ト圧ニ依ツテ前方甲ニ居タ私ニハノ音モ聞キ取ルコトハ出マセンデシタ 第三人ハ一人又ハ二人兵員ニヨリテ艦尾ノ方ニ連レテ行カレマシタ 私ハ前方甲上ニ居タガ時々第三人ノ部屋ニ入リ宣撫ヤ兵員ノ通訳ニツトメマシタ 後方ニ連レテカレル第三人●最初「スクリーン」ニ入ルマンド不安ニ思ヒ動揺スル様子ハアリマセンデシタ 支那人ノ子供ハ女ノ宣師ガ連レテキマシタ 午后三時半頃殺ハ終了シマシタ 其ノ後私ハ艦尾ニ行ツテ状況ヲ見マシ

「プラツトホーム」上ニ血ニ付キマセンデシタ 機ハ二挺置イテアリマシタガ重機カ軽機カハ記憶シマセン 又打殻モ気付キマセンデシタ 未ダ「スクリーン」ハ其儘ニシアリマシ

十時頃秋風ハ「ラバウル」ニ入港シマシタ 船長ト私ハ直チニ上陸 第八艦隊部ニ行キマシタ 幕僚室ニ居ラレタ神首席参謀ニ艦長ヨリ報告サレマシタ 神参謀ヨリ本事件ニ●テハ決シテ他言シテハナラヌト注意ガアリ艦長ハ明日第三人ノ手荷物ヲ陸揚ゲスル様言ツテヰマシタ 私ハ五分間バカリ居タガ神参謀ニハ今到着シタ旨告ゲタ以外話ヲ致シマセンデシタ 私𠀋ハ一足先ニ幕僚室ヲ出テ第八特別根地隊部ニ行キ宿泊シマシタ 其ノ後ノ秋風ノ状況ハ全ク知リマセン 又秋風、艦長其他乗員ノ氏名ハ全ク記憶ニ残ツテ居リマセン 約十日間「ラバウル」ニ滞在シ出張的ヲ達シタノデ駆潜艇ノ便ヲ借リ「ウエワク」ニ●着シマシ

鎌田、首席参謀多田野大佐ニハ行動中ノテノコトヲ報告シマシタ 第三殺ニ関シテハ非常ニ驚駭シ痛サレマシタ 「ラバウルヨリ部宛数通ノ書類ヲ●ツテ●リマシタ 内容ハ知リマセン 又調報告書ニ稲ノ種二袋トヲ官ニ提出シマシ

甲斐次郎

昭和二十一年十二月五日

石神信一の証言

オーストラリア国立公文書館所蔵、シリーズMP742/1」内、コントロールシンボル336/1/1444 PART 2」、表題『"Akikaze" Massacre - Reported killing of civilians 18.3.43 [also murder of internees at Kavieng] Akikaze massacre - sub-file to MISC 1 - Statements, interrogations, affidavits etc.exit』(アイテムID30112609」)、42-43ページより転記。

宣誓書

「良心ニ従ヒ実ヲ述べ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ」

昭和二十一年十二月十二日

住所 省略
石神信一
大正五年五月二十●日生(三十一才)

省略 ※石神の現職業や軍歴など)

昭和十八年三月外人時ノ記録

一.石神信一ノ配置 ●●隊 機械部●●●● 機械●●員配置ニテ機械室ニテ当直ス
艦長 海軍少佐 佐鶴吉 福縣出身ニテ 昭和十八年八月二日駆逐艦秋風ニテ爆撃ノ為●●ニテ戦死ス
先任将校 若イ中尉ナルモ名前記憶セズ
艦長ト同日戦死ス
其ノ他乗組●●● 名前記憶セズ

一.記憶セル乗組員ノ氏名
省略

駆逐艦秋風昭和十八年三月(?)「ラバウル」ヲ出港シ任務ハ兵員輸送ノ爲ト思フガ途中 (名記憶セズ)ニ●●外人約三十名艦サセ又途中外人約二十名ヲ艦サセテ「ラバウル」ニ帰航ノ途中ニテ●外人全部●殺セリ 殺当時自分ハ員当直ノ爲機械室ニ居てヲ聞ク 関係者以外ハ見ルコトヲ厳禁サレテヰタ爲ニ殺当時ノ模様ハ全然シラズ
場所●●甲ニ幕ヲリ見ルコトヲ禁ズ ノミニス
外人ハ男、女、子供二・三人ニシテ●●●●●●ルモ●●ハ判明セズ
ノ射手等ニ付テハ不明
当時ノ関係者以外ニハ口外ハ厳禁サレテヰタ爲詳細不明

外人艦サセテカラハ後部居住甲一室ニ入レテミルク」「パン」等ヲ●●優遇スルノヲ見●ナル
ノ当ハ●甲ヲ清掃シ供物ヲ飾●員参列 某兵(氏名記憶セズ)ガ入前ニ僧侶ノ爲ニ読経シテ死者ニ対シ懇ナル供養ヲナシ一同●福ヲ祈ル
ノ命ニテ又如何●●●ヲ以テ殺セルカハ知ラネドモ死者ニ対スル丁重ナル扱ハ日本ノ姿ナルコトヲ●リ印

石神信一

小口茂の証言

オーストラリア国立公文書館所蔵、シリーズMP742/1」内、コントロールシンボル336/1/1444 PART 2」、表題『"Akikaze" Massacre - Reported killing of civilians 18.3.43 [also murder of internees at Kavieng] Akikaze massacre - sub-file to MISC 1 - Statements, interrogations, affidavits etc.exit』(アイテムID30112609」)、111ページより転記。

宣誓書

『良心ニ従ヒ実ヲ述べ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ』

氏名 小口
住所 省略 
 四十六才

私は大東亜争始ッタ時昭和十六年カラ昭和十九年六月六日秋風機関トシテ乗ッテ居リマシタ 其ノ当時ハ中尉秋風退ノ少シ前十九年五月大尉ニ進級ニマシ

秋風昭和十七年六月カラ「ラバウル」方面デ機材、人員ノ輸送、特務(輸送)ノ護衛ヲ要任務トシテ居リマシタ。昭和十八年三月 日ハ記憶ニアリマセンガ部ノ命ニ依リ機材、人員輸送ノタメ「ラバウル」出港「ウエワーク」ニ行キマシタ 速力ハ二十八節[6]位ダッタト思ヒマス

「ウエワーク」で機材、人員ヲ卸シ帰途「ウエワーク」ノ近クノノ名記憶ニナシ)デ人三十名バカリ(機械室ニ居タタメ人員、及如何ナル人ガ乗ッタカハッキリワカリマセンデシタガ)

日本ノ兵隊若干名ヲ乗セ処ヲ出テ途中又小サイノ名不明)水上機基地ノアル処デ搭載シテアッタ機材ヲ揚ゲマシタ。処デ第三人ヲ乗セタカドウカハ私ハ機械室ニ居リマシタノデワカリマセン。処ヲ出テ「カビエン」ニ着キマシタ。処ニ●テ艦長、部カラノ命デ乗ッテ居ル三人ヲ「ラバウル行クニ処分シナケレバナラナイガ困ッタナトッテ居ラレタシタ[7] 処ヲ十二時頃出港 艦長ノ命ニ依リ二十四節ニシマシタ 約三時間デス ノ間ニサレタモノト思ヒマス。 私ハ機械室ニ居ッテ現場ハ見マセンガ機械室ヘ時々ガ聞コエマシタノデノ様ニ思ヒマス

ラバウル」入港直前ニ艦長、乗員ヲ集メラ殺シタ事ハ部ノ命ニ依リヤッタ事で極秘ノ事ダカラ決シテ他言シテハナナイトハレタ様ニ記憶シテ居リマス 其ノ後ノ状況ハワカリマセン

小口

老本義治の証言

オーストラリア国立公文書館所蔵、シリーズMP742/1」内、コントロールシンボル336/1/1444 PART 2」、表題『"Akikaze" Massacre - Reported killing of civilians 18.3.43 [also murder of internees at Kavieng] Akikaze massacre - sub-file to MISC 1 - Statements, interrogations, affidavits etc.exit』(アイテムID30112609」)、123-124ページより転記。

宣誓書

良心ニ従ヒ実ヲ述べ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ』[8]

海軍上等兵長(当時) 老本義治 三十三

配置 三番長(射手) 一分隊先任下士官(分隊員ノ人事仕●)
   私ハ分隊デ●トシテ一目ナリ 一目先任伍
期間 自 一六.二頃 至 一九.四頃ト思ヒマス

兵器数 十四 四門
    十銃 二門
    三八式小銃 三六

隊長砲術長) 海軍大尉 髙橋

下士官 海軍上等兵曹 井上●吉
      甲或ハ船全般作ハ甲板下士官ガ責任ヲ以テス

殺時期 一八四月頃ト思ヒマス

殺模様 三八式小銃使用 一人宛[9] 前部兵員室ヨリ
     後部殺場所ニ連行 連行人不明
     後部殺場所ニ柱 三本立テ幕ヲ横ニ
     図ニテ説明
     (簡単な図が挿入されている)
     先任校(●●)後部ニテ掛ケ居ルヲ見タ

殺時期[10]
     一年四月頃ト記憶ス
     午後 約二時間
     カビエング出港後次ノ日ト記憶ス

老本義治

先任校 二分隊長 海軍中尉 寺田

外人場所 (簡単な図が付されている。文字で示すなら「1○――2○ウエワク――3○カビエング――4○ラボール」)
       一或ハ二島ニテ船シタノカ記憶ハッキリセズ
       ウエワ島ニテ三〇乃至四〇名ト思ヒマ
       大発ニテ船ス
       船・行先・行動ハ私ヨクハワカラズ
       海軍兵十名モ記憶ナシ
外人起床 後部兵員室
食事 パン食ト思ヒマス

外人場所[11] 私ノ記憶ハ一回ト思ヒマス
       二回船シタ事ハ記憶ナシ

老本義治

甲斐次郎小口茂の言では「カビエン」を出港したその日に殺事件が起きたとされているが、老本の言では「カビエング出港ノ次ノ日ト記憶」となっている。

また、他の言者は3月だったと言しているが老本は「四月頃ト思ヒマス」「四月頃ト記憶」と記している。

更に他の言者は二カ所で第三人らが乗したと言しているが老本は「私ノ記憶ハ一回ト思ヒマス」「二回乗シタ事ハ記憶ナシ」と記している。

いずれの点も老本の言だけが食い違っているため、これらは老本の記憶違いか。

髙橋萬六の証言

オーストラリア国立公文書館所蔵、シリーズMP742/1」内、コントロールシンボル336/1/1444 PART 2」、表題『"Akikaze" Massacre - Reported killing of civilians 18.3.43 [also murder of internees at Kavieng] Akikaze massacre - sub-file to MISC 1 - Statements, interrogations, affidavits etc.exit』(アイテムID30112609」)、143-153ページ155-170ページ[12]に彼の言を元にまとめられた英文レポートがある。

上掲の他の言者と異なり彼の日本語の宣誓言書は資料内に含まれていない。だが、彼は「虐殺について直接撃したと語った一の言者である」[13]として資料作成者が注しており、特筆に値する。

そのため、特に処刑や被害者に深く関係する内容が記述された以下のページ153~166ページ)だけは、英語資料だが例外的に和訳して紹介する。

一ノ瀬春吉の証言

一ノ瀬吉は事件当時マヌスレンゴウ派遣隊長だった人物である。

オーストラリア国立公文書館所蔵、シリーズMP742/1」内、コントロールシンボル336/1/1444 PART 2」、表題『"Akikaze" Massacre - Reported killing of civilians 18.3.43 [also murder of internees at Kavieng] Akikaze massacre - sub-file to MISC 1 - Statements, interrogations, affidavits etc.exit』(アイテムID30112609」)、25-26ページに彼の言がある。

「同には第三人が約20名居た。最初は交流も乏しかったがだんだんとしくなり日本酒を酌み交わしたりもした。ある時「彼らを移送するから準備しておけ」という命電報が届いたので急いで手配をし、彼らを駆逐艦秋風に送り届けた。秋風で彼らを入れろと言われた部屋カイリで乗せた別の第三人で既に一杯だったので、艦長に願って別の部屋を用意してもらった。」と言ったような内容を言しているが、彼自身は秋風が出港する前に降りたので事件そのものに関する言はない(そのためここへの転記も省略する)。

虐殺事件について知ったのは尋問を受けた時だったらしく、取り調べに関する書類には以下の英文記述が残されている(同資料、30ページ)。

When he was informed by the interrogating officer of the massacre which had taken place ICHINOSE was shocked to tears and his mortification appeared to me to be fairly genuine.

(和訳例:彼が尋問官から虐殺が起きたことを知らされたとき、イチノセはショックを受け落しており、私には彼の念は本物のように見えた。)

なお、調記録では一ノ瀬言と前掲の甲斐次郎言は概ね一致するとしているが、ロレンゴウで乗した第三人の人数だけは食い違っていると摘している。甲斐言では「四十名」となっていたが、一ノ瀬言では「約二十名」となっているためだ。この食い違いについては、「一ノ瀬言の方が正しいのではないかと思われる」と言った意見も記載されている。一ノ瀬はその第三人ら19名分の籍や年齢職業情報言しており、さらに彼らの住所を書き入れた周辺の地図までも提示していた(同資料、27ページ)。

大西新蔵の回想録

第八艦隊の参謀長だった「大西新蔵」や第八艦隊の長官だった三軍一は戦後この事件の戦犯容疑での裁判を受けており、その時のことについて大西1979年に出版された回想録『海軍生活放談 日記と共に六十五年』にて書き残している。

終戦の翌年即ち昭和二一年には、戦犯容疑者の拘禁が始まった。日本ポツダム宣言を受諾したので、予期された事ではあるが、戦犯とは戦勝一方的な残虐行為である。A級戦犯B級戦犯々が巣鴨拘置所に入った、と新聞が書き始めた。二一年一二月初めの頃である。復員局から私に対しても、内密に警告があった。ソロモン方面宣教師虐殺事件で、連合軍の捜員が活動を開始したという。第八艦隊参謀長時代の事件なのである。長官の三中将危い事と知った。、二人の陳述に喰い違いのないように打ち合せねばならない。下落合の三さんのお宅で話し合うのはまずいので、往来で歩きながら話し合った。駆逐艦秋風に起った事件である。打ち合せた事項は日記に書いていない、「そんな事件は知らない」「秋風の如き旧式駆逐艦は八艦隊にはいなかった」とすることを話し合ったようである。永野修身大将は、戦犯本人はだ、と宣言しながら巣鴨入りした。しかし、私の場合はちがう。残虐行為関係のB級戦犯である。進駐軍は理不尽である。極刑の算もある。戦死の覚悟は出来ても刑死は憤懣やる方なし。ショックは受けたけれども、表には出さなかった。当時の日記をみても、精神動揺の形跡がない。家族に対しては、軽度の事件で進駐軍から調べられるかも知れない、と告げた。

私の事件は宣教師等四〇人至八〇人殺事件である。どうなるか分らない。

戦犯裁判の実体

嫌な想出を長々と書くのは不本意なことだが、自分の一生においては、生か死かの岐路なので総括的に記述する。日記読み直してにつくことは、復員局が私達二名(三8F[21]長官と私)に対して、少しも面倒を見てれなかった事である。否むしろ私達二名の犠牲において、未だ拘置されていない人達を助ける方向に動いた事である。問題の駆逐艦秋風が、どこに所属していたかが決定すれば、その長官たる鹿中将責任者と決定する。そして私達は無罪となり、鹿長官が代って拘置されることになる。こういうケースは他にもあった様であるが、検事側の人に立った人達は、皆復員局からの差し金で動いており、秋風は第八艦隊の揮下に在ったという。任務により揮系統を変更すること、即ち一時的に揮系統を変更することを軍隊区分と言った。残念乍ら兵学校出身の人が軍隊区分は一日間でも二日間でも変更出来るような事を言った。軍隊区分はそういう軽い便宜的なものではない。この陳述は検事の軍隊区分に関する概念を迷わしめるものであった。従って、当方弁護団は人の言も大切であるが、物的拠を重要視した。大本営に提出した作戦日誌とか、関係者の日記等、具体的物件をより一層重視した。尾前法務官は、等の弁護人であったが、以上のような経緯があったためであろう。調も不底であった。近藤弁護人とフェジソン弁護人が信頼された。私はFeatherstone弁護人に、第八艦隊や、南東方面艦隊から大本営に提出した作戦日記を捜し出すようにめた。そしてこれが出て来さえすれば問題は簡単に解決すると、しつこく要請した。しかしなかなか出て来なかった。どうして出て来なかったのか?私はこれを確めていない。当時の日記読んでみたら、矢日記のままを抄記するのがよいと知った。

これ以後は長くなるため引用は控えるが、大西は「復員局は、第八艦隊の大西と三に罪を押し付けて、南東方面艦隊長官だった鹿任一中将を守ろうとしている」という疑いを強く抱いていたらしいことが伺える。

例えば、複数の海軍の軍人が検事側の人に立って「事件当時は秋風が第八艦隊の揮下にあった」と言したことについて「明治ビル[22]に呼ばれる前に復員局に立寄り、何れも打ちされたものと見えて、皆、秋風が8Fに一時入れられた様な事を述べる」と記している。

そして、1948年になってから「南東方面艦隊戦時日誌」などの拠が提示され、その内容から「秋風が事件当時も南東方面艦隊の揮下であった」ことが示され、これをもって大西と三は最終的に無罪となったという。大西はこの時期になってやっと決定的な拠が出てきたことについて

二三世界の情勢が変って来て、ソ間の冷戦が開始された。は対日態度をAntiからProに変向し始めていた。この情勢から、新しく拘置される者はいと噂も立っていた。鹿さんの身辺に危険なしとの見究めもついたである。

と記しており、「冷戦開始の米国日本に対する態度が軟化して鹿任一中将が訴追される心配がなくなったので、それまで意図的にせていた大西と三無罪を立する拠を出したのだろう」と推測していたようだ。

実際「秋風が事件当時揮下にあったのは第八艦隊ではなく南東方面艦隊である」という論理で第八艦隊参謀長の大西新蔵や第八艦隊長官の三軍一が無罪となったならば、次には南東方面艦隊長官だった鹿任一が責任を問われなければならないはずだが、その問責が行われた形跡はない。

こうして「この殺事件について責任があったのか、殺がなぜ出したのか」については有耶耶のままに、戦犯裁判は終結した。

なお、裁判の際に言した者たちの氏名も書き添えられているが、その中には上記の供述書の人物と同一と思われる「甲斐次郎予備大尉」「一ノ瀬吉」「石神信一」「高橋秋風第一分隊長」「小口秋風機関長」の名もある。

関連リンク

関連項目

  • 駐蒙軍冬季衛生研究成績 (「相手を殺しつつも慰霊祭を行い、そのことについて感動の念を表明」という、この事件での石神信一の供述書に類似した内容が含まれる。当時は一般的な感性だったのかもしれない)

脚注

  1. *甲斐次郎言が正しいなら、16日にカイリルを出港して翌17日にロレンガウに到着、同日夕にロレンガウを出港して翌18日午前中にカビエンに到着、すぐに出発して過ぎに事件が発生しているので、18日のはずである。だが他に17日だとする資料も存在するとのこと。
  2. *当時海軍少将だった鎌田章か
  3. *「大発動艇」の略称「大発」の意と思われる
  4. *当時の秋風艦長だった佐部吉か
  5. *当時秋風が所属していた第34駆逐隊だった嘉重か
  6. *「節」は「ノット」の漢字表記
  7. *「居ラレマシタ」ではなく「居ラレタシタ」と書いてあるように見える
  8. *文頭にあるべき「」は欠けているようだ
  9. *この「宛」は「ずつ」の漢字表記と思われる
  10. *既に記された「殺時期」が何故か二回重ねて記されている。理由は不明。
  11. *ページの「殺時期」と同じく、既に記された「外人場所」が何故か二回重ねて記されている。理由は不明。
  12. *154ページには高橋重夫の言レポートが混入している。苗字が同一であるためのミスか。
  13. *原文では「TAKAHASHI, Manroku is the only known eye-witness (on his own admission) of the "AKIKAZE" massacre who has so far been interrogated.」。168ページ
  14. *「TN」は「translator’s note」、「翻訳者による注釈」の略かと思われる。ここ以後でも出てくるが、翻訳文では「注:」とした。つまり翻訳文内で「注:」としている部分は、本ニコニコ大百科記事の編集者が付した注釈ではなく、報告書の英文の時点で「TN」で付された注釈の翻訳である
  15. *髙橋六はこれより前のページの「Forward」(序文)にて、「The area and place names of that time are still not clear, and especially, I am completely unable to remember dates. Thus, I have written so as to permit insertion in the blank spaces.」(当時の地域や地点の名称は未だにはっきりせず、特に日付は全く思い出せない。よって欄に書き入れることができるような形式で記載した。)と供述している。
  16. *甲斐次郎の事かと思われる
  17. *実際にはドイツ人ではないかと思われる。この後のページにある表にも「イギリス人とドイツ人」とまとめて書いてあるなど、髙橋六や彼の周囲の人物はイギリス人でドイツ人なのかよく把握していなかった節がある。
  18. *余分な「(」が入っている。原文ママ
  19. *accommodated」のタイプミス
  20. *いわゆる「むしろ」のようなものか
  21. *「8F」は第八艦隊の意
  22. *現:明治生命館。明治生命保険の社屋ビルだったが、終戦後にGHQに接収され、戦犯裁判の取り調べもここで行われた。

【スポンサーリンク】

  • 6
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

駆逐艦秋風虐殺事件

40 ななしのよっしん
2025/01/24(金) 10:11:31 ID: QPiKakORjj
なるほど、秋風の記事がないのに事件単体の記事を立ててるのか
何か感じ悪いな
👍
高評価
8
👎
低評価
5
41 削除しました
削除しました ID: LmVWgXc1dI
削除しました
42 ななしのよっしん
2025/01/24(金) 14:32:17 ID: gIRVulmpbZ
>>32
ニコ動に関連動画い記事もたくさんあるし
それが理由で記事を作ってはいけないという事にもなってないんだわ。

問題児ニコニコ大百科の方針は切り離そうな。
👍
高評価
5
👎
低評価
4
43 ななしのよっしん
2025/01/24(金) 14:42:04 ID: iAZj3TrKYt
その辺は仮に動画静画に適切にタグ付けされた作品がければ記事立て不可としたところで適当投稿すりゃ良いだけだろうしな・・・。
👍
高評価
1
👎
低評価
2
44 ななしのよっしん
2025/01/24(金) 15:10:55 ID: L/gu5O+u/s
>>43
それまさにこの間まで暴れてた基本情報技術者試験というやつがやってたことなのでは?
👍
高評価
4
👎
低評価
1
45 ななしのよっしん
2025/01/24(金) 18:32:47 ID: iAZj3TrKYt
>>44
関連動画ければ作ってはいけないルールが有ったところで連中なら作るだけだろうなって意味で、やり口を肯定してるわけじゃない。
👍
高評価
1
👎
低評価
1
46 ななしのよっしん
2025/01/26(日) 22:42:10 ID: L7yEM+WbDX
>>42
記事を作っていい・いけないについて論じたいわけじゃないよ。
「なんで作る理由があったのか」を疑問に思ってるだけ
(いやまぁ先に書いた通り他wiki削除されまくったからなんだろうけど……)

正直、この記事って内容が内容なだけに
是非関係なく腫物扱いになるの見えてるじゃない?
それいきなり持ち込まれてる時点でどうしたってマイナス視点線からスタートするよ

規約上問題ないから好きにすればいいけど
その行為に対して記事閲覧側も大に対応する理由ねーなってだけ 変なの湧いたなー でいい
👍
高評価
4
👎
低評価
5
47 ななしのよっしん
2025/01/27(月) 21:50:58 ID: 2DuhDb2Ja+
「なんで作る理由があったのか」なんて今まで記事がなかったからだろう
この記事に限らず新規作成される記事すべてに同じこと言える
👍
高評価
6
👎
低評価
7
48 ななしのよっしん
2025/01/27(月) 22:28:00 ID: iAZj3TrKYt
書いた本人が何も言わないんでね・・・。代弁者気取りな人は来るみたいだけど。
👍
高評価
5
👎
低評価
4
49 ななしのよっしん
2025/02/01(土) 02:01:36 ID: 4OFAoClVfd
掲示板では絶対に話そうとしないのに更新履歴は延々書くの、軽く狂気だよね
👍
高評価
3
👎
低評価
4

ニコニコニューストピックス