駆逐艦秋風虐殺事件とは、1943年3月17日または18日[1]に発生した、大日本帝国海軍による民間人虐殺事件である。
「秋風事件」などとも言われる。英語圏では「Akikaze Massacre」などと呼称されている。
概要
第二次世界大戦中、ラバウルに向かってドイツ人宣教師らなどを含む多数の外国籍民間人ら数十名を移送していた大日本帝国海軍の駆逐艦「秋風」上において、何者かの命令に従って日本軍人らがその民間人ら全員を殺処分した事件。
「ビハール号事件」などと並ぶ、大日本帝国海軍の歴史上の汚点といえる。艦上で行われた非戦闘中の殺害事件としては、他にも駆逐艦「嵐」や「巻風」でミッドウェー海戦時に捕虜として収容していた敵軍人を処刑した事件などの例はある。しかし本事件と「ビハール号事件」では殺害した相手が民間人であったことが特異な点である。さらに「撃沈した敵国商戦に乗っていた敵国人を一度収容した後に殺害した」ビハール号事件と比べて、本事件では「移送中の民間人であり、しかもその中に同盟国人を多数含んでいた」という奇妙な点がある。
事件当時秋風に乗船していた者が戦後に尋問を受けており、その供述から「殺害すべしとする命令を受け取った艦長らが顔色を悪くして不本意だと言っていたこと」「殺処分の過程について」「犠牲者中には幼い子どもも含まれていたこと」「殺害当日の夜に日本軍人らが供物を捧げて読経を行うなどの慰霊式を行っていたこと」「しばらくしてこの殺害事件の報告を受けた「鎌田少將」[2]や参謀らが「非常ニ驚駭シ痛哭」していたこと」など、当時の状況に関する情報が得られている。
それらの供述書類の日本語原文やその英訳要約書類などについてオーストラリア政府が保管し、デジタル化画像を同国の国立公文書館のウェブサイトで公開しているために現在では原資料がネット上で閲覧できる(本記事「関連リンク」参照)。
移送されていた民間人は日本軍と敵対していたわけではないようだ。移送前に民間人らと現地で親しくなっていた日本軍人がおり、殺害事件について戦後の連合国による取り調べの場で初めて知って衝撃を受けて落涙している(本記事「一ノ瀬春吉の証言」参照)。「秋風」の艦上でも当初はミルクやパンを供されるなどそれなりの待遇を受けていたようだ(本記事「石神信一の証言」「髙橋萬六の証言」参照)。
にもかかわらず、虐殺事件が起きてしまった。「なぜ敵対していた訳でもない民間人、しかも多くは同盟国であるドイツの国民を含む人々を虐殺するような命令が出されてしまったのか」については、現在でも結局不明瞭なままとなってしまっている。命令を受け取った秋風の艦長らが戦死してしまっていたために、戦後の連合軍の調査において事情を知っていたかもしれない彼らを尋問することができなかったのである。
さらに、戦後に行われた戦犯裁判においても「責任が誰にあったか」については大日本帝国海軍の軍人の間同士で「押し付け合い」のような形となり、結局当初責任者と疑われて被告人となった人物らが「実は責任者ではなかった」と立証して無罪になったが、その時点で裁判が集結してしまい最終的に有耶無耶になってしまった。
殺害されたドイツ人宣教師を追悼しているドイツの教会のウェブサイト(本記事「関連リンク」参照)などでは、「宣教師らが現地で負傷したアメリカ人の治療なども行っていたため、スパイとして疑われてしまったのではないか」という推測を述べている。
また、秋風の乗員らが抱いていた被害者らの国籍への認識が「イギリス人らと、その使用人たちとしての中国人やビルマ人と、少数の現地人。ドイツ人も混ざっているかもしれない」「敵国人ではあるが民間人」といった程度のものだったという証言があり(本記事「髙橋萬六の証言」参照)、この認識も影響した可能性がある。
証言の例
証言資料のうち、一部を抜粋して紹介する。「殺害について関連する記述のある、日本語の手書き宣誓証言書類」を中心としている。
ただし、「日本語の書類は無いが、殺害に関して具体的に供述しているもの」(髙橋萬六の証言)や「殺害について直接関係する供述ではないが、被害者らと日本軍人らの関係について参考となる内容が含まれるもの」(一ノ瀬春吉の証言)も例外として掲載している。
以下引用部内の「●」は、元の資料から転記する際に、画質不良や手書き文字故の曖昧さ、古い表現の理解不足などで判読できなかった文字である。本記事の読者の方で、元の画像を確認して文字が判読できた方は当該部を更新頂きたい。
基本的に可能な限りそのまま転記しているが、元資料では「文章の切れ目だが文字の間に隙間が無い」ことが多く読みづらいため、文章の切れ目にスペースを付加した部分がある。
甲斐彌次郎の証言
オーストラリア国立公文書館所蔵、シリーズ「MP742/1」内、コントロールシンボル「336/1/1444 PART 2」、表題『"Akikaze" Massacre - Reported killing of civilians 18.3.43 [also murder of internees at Kavieng] Akikaze massacre - sub-file to MISC 1 - Statements, interrogations, affidavits etc.』(アイテムID「30112609」)、64-68ページより転記。
宣誓書
『良心ニ従ヒ眞実ヲ述べ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ』
昭和十八年三月十六日頃私ハ命ニ依リ秋風ニ便乘「カイリル」発「ラバウル」ニ出張中「ロレンガウ」「キヤビエン」ニ寄港シテ三月十八日頃「ラバウル」ニ到着 約十日間滞在後駆逐艦ニ便乘シテ「ウエワク」ニ改着シマシタ 其ノ間ノ出来事ヲ記憶ヲ呼起シ茲ニ記述シマス
私ノ「ラバウル」出張目的ハ在「ラバウル」関係海軍各機関ニ着任挨拶、「ラバウル」方面状況視察デ序ニ「カイリル」ヨリ秋風ニ便乘シ「ラバウル」ニ輸送サレル第三國人ノ世話ヲセヨト謂フコトデアリマシタ
當時私ノ身分ハ海軍豫備大尉デ第八海軍建設部ニ●、第二特別根據地隊司令部附、「ラバウル」海軍運輸部ニ●デアリマシタ 出張命令ハ司令官鎌田少將ヨリ直接受ケマシタ 多田野主席参謀矢倉次席参謀モ勿論承知ノ筈デス 関係●●ハ「カイリル」●沖ニ碇泊中ノ秋風艦上ニ於テ便乘 第三國人ト共ニ矢倉参謀ヨリ直接艦長ニ引渡サレマシタ 第三國人ハ陸上ニ於テ人員調ベラレテ手荷物各自五個●ト共ニ「ダイハツ[3]」ニテ秋風ニ積込マレマシタ 私ハ「ウエワク」司令部ト陸上ニ於テ人員調ベノ時ニ便乘第三國人ノ名簿ヲミマシタ 矢倉参謀ハ秋風出港直前ニ退艦サレマシタ 「カイリル」デ便乘シタ者ハ●●第三國人約二十六、七名デ男ノ數ヨリ女ノ數ガ多カツタ様ニ記憶シテオリマス 支那人ノ子供ガ二人 一人ハ漸ク歩ク位ノ程度一人ハ七歳位デ男ノ子ト女ノ子デ女ノ宣敎師ニ伴ハレテオリマシタガドチラガ男デアツタカ記憶ニ残ツテオリマセン 當時「カイリル」島ニハ第二特別根據地隊ノ派遣隊ガアリマシタガ其時ノ指揮官ノ名ハ記憶シテオリマセン 「カイリル」で乘艦シタ第三國人ノ内老齢ノ宣敎師「ビシヨツプ」𠀋デ他ノ人名ハ記憶シマセン 翌日秋風ハ「ロレンガウ」ニ入港シテ第三國人四十名餘ト日本海軍々人及軍属約十名餘ヲ搭載シマシタ 秋風ハ港内ニ錨泊シテオリマシタノデ右ノ人々ハ「ダイハツ」デ荷物ト共ニ艦ニ運バレテヰマシタ 私ハ勿論派遣隊長ノ名モ便乘シテ來タ日本海軍々属軍人及第三國人ノ名モ知リマセン 第三國人ハ大部英語デ話シテヰマシタガ間ニハ独乙語、馬來語デ話シテヰル者モアリマシタ 「ロレンガウ」便乘ノ第三國人ニハ艦首ノ兵員室ヲアテ「カイリル」便乘ノ第三國人ニハ艦尾ノ兵員室ヲアテテ居住ニ供サレテヰマシタ
「ロレンガウ」便乘ノ日本海軍々属軍人ハ端艇甲板ニ起居シ私ハ食事ハ士官食堂デ執リ暑気ガ烈シイノデ起居ハ主トシテ甲板上ニ移動寝台ヲ積出シテ過シマシタ 三月十七日頃ノ夕刻秋風ハ「ロレンガウ」ヲ出港 翌日午前十時頃「カビエン」到着 間モナク出港シマシタ 陸上ヨリハ連絡艇來リ直グ●リマシタ 「カビエン」ニテハ便乘者ナシ 出港ノ時艦長[4]ヨリ次ノコトヲ知ラサレマシタ 第八艦隊ノ命ニ依リ乘艦中ノ第三國人ヲ銃殺スルト 其ノ時司令[5]及艦長ノ顔色ハ大変悪ルク心配シテヰル様子デアツタ 不本意ダガ命令ダカラ仕方ガナイト司令モ艦長モイツテヰマシタ 私ハ如何ナル様式デ命令ガ來タカ又如何ナル理由デ第三國人ヲ銃殺サレルカ知ルコトハ出來マセンデシタ
秋風ハ水道ヲ通過シテ南下シマシタ 其ノ途中デ艦尾兵員室ノ第三國人ハ艦首兵員室ニ移サレマシタ 続イテ日本人便乘者及ビ私モ艦首甲板ノ方ヘ移リマシタ 艦橋ノ後方デハ兵員ノ手デ準備ガ進メラレ艦尾ニ二米平方位ノ板製「プラツトホーム」ヲ設ケ支柱ト両側ニハ「ロープ」を張リテアリ艦橋ヨリ艦尾迄ノ甲板上両舷共「キヤンバススクリーン」ヲ二個所ニ張リ前方ヨリ後方ノ見透シガ出來ヌ様ニシテアリマシタ 之ハ銃殺ガ終了シテ後現場ヲ見テ知リマシタ 正午前ニ中食ヲ了シマシタ 士官食堂ハ艦橋ノ下方ニ在リマシタ 正午過ギヨリ銃殺ガ「カビエン」南方洋上約六十浬ノ地奌ニテ実施サレマシタ 司令艦長、航海長等ハ艦橋ニ居マシタ先任將校ガ艦尾デ指揮ヲシテヰルコトヲ兵員カラ聞キマシタ 艦橋ト艦尾トハ屡々連絡ヲトツテ居タ様子ガ見エテヰマシタ 前方ヨリ艦尾ノ状況ハ見エズ又機械ノ音ト風圧ニ依ツテ前方甲板ニ居タ私ニハ銃ノ音モ聞キ取ルコトハ出來マセンデシタ 第三國人ハ一人又ハ二人兵員ニヨリテ艦尾ノ方ニ連レテ行カレマシタ 私ハ前方甲板上ニ居タガ時々第三國人ノ部屋ニ入リ宣撫ヤ兵員ノ通訳ニツトメマシタ 後方ニ連レテユカレル第三國人●最初「スクリーン」ニ入ルマデ殆ンド不安ニ思ヒ動揺スル様子ハアリマセンデシタ 支那人ノ子供ハ女ノ宣敎師ガ連レテ行キマシタ 午后三時半頃銃殺ハ終了シマシタ 其ノ後私ハ艦尾ニ行ツテ状況ヲ見マシタ
「プラツトホーム」上ニ血痕ハ餘リ目ニ付キマセンデシタ 機銃ハ二挺置イテアリマシタガ重機カ軽機カハ記憶シマセン 又打殻モ気付キマセンデシタ 未ダ「スクリーン」ハ其儘ニシテアリマシタ
當日夜十時頃秋風ハ「ラバウル」ニ入港シマシタ 司令、船長ト私ハ直チニ上陸 第八艦隊司令部ニ行キマシタ 幕僚室ニ居ラレタ神首席参謀ニ艦長ヨリ報告サレマシタ 神参謀ヨリ本事件ニ●テハ決シテ他言シテハナラヌト注意ガアリ艦長ハ明日第三國人ノ手荷物ヲ陸揚ゲスル様言ツテヰマシタ 私ハ五分間バカリ居タガ神参謀ニハ只今到着シタ旨告ゲタ以外會話ヲ致シマセンデシタ 私𠀋ハ一足先ニ幕僚室ヲ出テ第八特別根據地隊司令部ニ行キ宿泊シマシタ 其ノ後ノ秋風ノ状況ハ全ク知リマセン 又秋風司令、艦長其他乗員ノ氏名ハ全ク記憶ニ残ツテ居リマセン 約十日間「ラバウル」ニ滞在シ出張ノ目的ヲ達シタノデ駆潜艇ノ便ヲ借リ「ウエワク」ニ●着シマシタ
司令官鎌田少將、首席参謀多田野大佐ニハ行動中ノ總テノコトヲ報告シマシタ 第三國人銃殺ニ関シテハ非常ニ驚駭シ痛哭サレマシタ 「ラバウル」ヨリハ司令部宛数通ノ書類ヲ●ツテ●リマシタ 内容ハ知リマセン 又調査報告書ニ稲ノ種二袋トヲ司令官ニ提出シマシタ
石神信一の証言
オーストラリア国立公文書館所蔵、シリーズ「MP742/1」内、コントロールシンボル「336/1/1444 PART 2」、表題『"Akikaze" Massacre - Reported killing of civilians 18.3.43 [also murder of internees at Kavieng] Akikaze massacre - sub-file to MISC 1 - Statements, interrogations, affidavits etc.』(アイテムID「30112609」)、42-43ページより転記。
宣誓書
「良心ニ従ヒ眞実ヲ述べ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ」
現住所 (省略)
石神信一
大正五年五月二十●日生(三十一才)一.石神信一ノ配置 ●●隊 機械部●●●● 機械●●總員配置ニテ機械室ニテ当直ス
艦長 海軍少佐 佐部鶴吉 福井縣出身ニテ 昭和十八年八月二日駆逐艦秋風ニテ爆撃ノ為●●ニテ戦死ス
先任将校 若イ中尉ナルモ名前記憶セズ
艦長ト同日戦死ス
其ノ他乗組●●● 名前記憶セズ駆逐艦秋風ハ昭和十八年三月(?)「ラバウル」ヲ出港シ任務ハ兵員輸送ノ爲ト思フガ途中 島(名記憶セズ)ニ●●外人約三十名乘艦サセ又途中外人約二十名ヲ乘艦サセテ「ラバウル」ニ帰航ノ途中ニテ●外人全部●殺害セリ 殺害当時自分ハ總員当直ノ爲機械室ニ居て銃声ヲ聞ク 関係者以外ハ見ルコトヲ厳禁サレテヰタ爲ニ殺害当時ノ模様ハ全然シラズ
殺害場所●●甲板ニ幕ヲ張リ見ルコトヲ禁ズ 銃声ノミ耳ニス
外人ハ男、女、子供二・三人ニシテ●●●●●●ルモ●●ハ判明セズ
銃ノ射手等ニ付テハ不明
当時ノ関係者以外ニハ口外ハ厳禁サレテヰタ爲詳細不明外人ヲ乘艦サセテカラハ後部居住甲板一室ニ入レテ「ミルク」「パン」等ヲ●●優遇スルノヲ見●ナル
殺害ノ当夜ハ●甲板ヲ清掃シ供物ヲ飾●總員参列 某水兵(氏名記憶セズ)ガ入團前ニ僧侶ノ爲ニ読経シテ死没者ニ対シ懇ナル供養ヲナシ一同●冥福ヲ祈ル
誰ノ命令ニテ又如何●●●ヲ以テ殺害セルカハ知ラネドモ死者ニ対スル丁重ナル扱ハ日本ノ姿ナルコトヲ●リ印象ス石神信一
小口茂の証言
オーストラリア国立公文書館所蔵、シリーズ「MP742/1」内、コントロールシンボル「336/1/1444 PART 2」、表題『"Akikaze" Massacre - Reported killing of civilians 18.3.43 [also murder of internees at Kavieng] Akikaze massacre - sub-file to MISC 1 - Statements, interrogations, affidavits etc.』(アイテムID「30112609」)、111ページより転記。
宣誓書
『良心ニ従ヒ眞実ヲ述べ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ』
私は大東亜戰争始ッタ時昭和十六年カラ昭和十九年六月六日迄秋風機関長トシテ乗ッテ居リマシタ 其ノ当時ハ中尉デ秋風退船ノ少シ前十九年五月ニ大尉ニ進級ニマシタ
秋風ハ昭和十七年六月カラ「ラバウル」方面デ機材、人員ノ輸送、特務船(輸送船)ノ護衛ヲ主要任務トシテ居リマシタ。昭和十八年三月 日ハ記憶ニアリマセンガ司令部ノ命ニ依リ機材、人員輸送ノタメ「ラバウル」出港「ウエワーク」ニ行キマシタ 速力ハ二十八節[6]位ダッタト思ヒマス
「ウエワーク」で機材、人員ヲ卸シ帰途「ウエワーク」ノ近クノ島(島ノ名記憶ニナシ)デ㐧三國人三十名バカリ(機械室ニ居タタメ人員、及如何ナル人ガ乗ッタカハッキリワカリマセンデシタガ)
及日本ノ兵隊若干名ヲ乗セ此処ヲ出テ途中又小サイ島(島ノ名不明)水上機基地ノアル処デ搭載シテアッタ機材ヲ揚ゲマシタ。此処デ第三國人ヲ乗セタカドウカハ私ハ機械室ニ居リマシタノデワカリマセン。此処ヲ出テ「カビエン」ニ着キマシタ。此処ニ●テ艦長、司令部カラノ命令デ乗ッテ居ル三國人ヲ「ラバウル」迄行ク迄ニ処分シナケレバナラナイガ困ッタナト云ッテ居ラレタシタ[7] 此処ヲ十二時頃出港 艦長ノ命ニ依リ二十四節ニシマシタ 約三時間デス 此ノ間ニ銃殺サレタモノト思ヒマス。 私ハ機械室ニ居ッテ現場ハ見マセンガ機械室ヘ時々銃声ガ聞コエマシタノデ此ノ様ニ思ヒマス
「ラバウル」入港直前ニ艦長、乗員ヲ集メラレ銃殺シタ事ハ司令部ノ命ニ依リヤッタ事で極秘ノ事ダカラ決シテ他言シテハナラナイト云ハレタ様ニ記憶シテ居リマス 其ノ後ノ状況ハワカリマセン
小口茂
老本義治の証言
オーストラリア国立公文書館所蔵、シリーズ「MP742/1」内、コントロールシンボル「336/1/1444 PART 2」、表題『"Akikaze" Massacre - Reported killing of civilians 18.3.43 [also murder of internees at Kavieng] Akikaze massacre - sub-file to MISC 1 - Statements, interrogations, affidavits etc.』(アイテムID「30112609」)、123-124ページより転記。
宣誓書
良心ニ従ヒ眞実ヲ述べ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ』[8]
配置 三番砲長(射手) 一分隊先任下士官(分隊員ノ人事仕●)
私ハ分隊デモ●トシテ一番目ナリ 一番目先任伍長
乗船期間 自 一六.二頃 至 一九.四頃ト思ヒマス甲板下士官 海軍上等兵曹 井上●吉
甲板作業或ハ船全般作業ハ甲板下士官ガ責任ヲ以テス銃殺模様 三八式小銃使用 一人宛[9] 前部兵員室ヨリ
後部銃殺場所ニ連行 連行人不明
後部銃殺場所ニ柱 三本立テ天幕ヲ横ニ張ル
図ニテ説明
(簡単な図が挿入されている)
先任將校(●●)後部ニテ脇掛ケ居ルヲ見タ銃殺時期[10]
一八年四月頃ト記憶ス
午後 約二時間
カビエング出港後次ノ日ト記憶ス老本義治
外人乗船場所 (簡単な図が付されている。文字で示すなら「1○――2○ウエワク――3○カビエング――4○ラボール」)
一.或ハ二.島ニテ乗船シタノカ記憶ハッキリセズ
ウエワク島ニテ三〇名乃至四〇名ト思ヒマス
大発ニテ乗船ス
船・行先・行動ハ私ヨクハワカラズ
海軍兵十名乗船モ記憶ナシ
外人起床 後部兵員室
食事 パン食ト思ヒマス外人乗船場所[11] 私ノ記憶ハ一回ト思ヒマス
二回乗船シタ事ハ記憶ナシ老本義治
甲斐彌次郎や小口茂の証言では「カビエン」を出港したその日に殺害事件が起きたとされているが、老本の証言では「カビエング出港ノ次ノ日ト記憶ス」となっている。
また、他の証言者は3月だったと証言しているが老本は「四月頃ト思ヒマス」「四月頃ト記憶ス」と記している。
更に他の証言者は二カ所で第三国人らが乗船したと証言しているが老本は「私ノ記憶ハ一回ト思ヒマス」「二回乗船シタ事ハ記憶ナシ」と記している。
いずれの点も老本の証言だけが食い違っているため、これらは老本の記憶違いか。
髙橋萬六の証言
オーストラリア国立公文書館所蔵、シリーズ「MP742/1」内、コントロールシンボル「336/1/1444 PART 2」、表題『"Akikaze" Massacre - Reported killing of civilians 18.3.43 [also murder of internees at Kavieng] Akikaze massacre - sub-file to MISC 1 - Statements, interrogations, affidavits etc.』(アイテムID「30112609」)、143-153ページと155-170ページ[12]に彼の証言を元にまとめられた英文レポートがある。
上掲の他の証言者と異なり彼の日本語の宣誓証言書は資料内に含まれていない。だが、彼は「虐殺について直接目撃したと語った唯一の証言者である」[13]として資料作成者が注目しており、特筆に値する。
そのため、特に処刑や被害者に深く関係する内容が記述された以下のページ(153~166ページ)だけは、英語資料だが例外的に和訳して紹介する。
- 153~158ページ(誤混入した154ページを除く):
Full account of the Third cruise.
(第3回航海の全記録)Day: (TN[14] Blank) Month: (TN Blank)[15] 1943. The ship's captain went to the Base Headquarters at RABAUL for his orders. The same day, (food) supplies, rice, hard tack, medical supplies, etc were loaded on the deck of the AKIKAZE from three large landing barges. The following day, a Lieutenant from the headquarters, who was capable of interpreting (who understood English) went aboard the ship.
(1943年[注:空白]月[注:空白]日。艦長は命令を受諾するためにラバウルにある基地司令部に向かった。同日、大型揚陸船3隻から秋風の甲板に(食糧)補給品、米、乾パン、医療補給品などが積み込まれた。翌日、司令部から通訳ができる(英語を解する)大尉[16]が乗艦した。)The weather on that (day) was clear, and at 0800 hours, we left RABAUL for places known only as the "usual places". As a rule, details on board ship were (under) the sole direction of the executive officer, who acted under orders from the captain of the ship.
(そのとき(日中)の天気は晴れで、08時00分に、我々は「いつもの場所」としてのみ知られている場所へ向かってラバウルを発った。通例、船上における細部は船長の命令下に行動する副艦長の独自の裁量下におかれた。)The cruise was plotted by the ship's captain and the navigation officer.
(この航海は船長と航海士によって計画された。)Furthermore, since the others were on auxiliary duties, they had but a vague idea of their destination. However, due to duty responsibilities, I had a general idea (of affairs) through relaying of messages (SHUKEI).
(なお、他の者は補佐任務に就いていたため、目的地について曖昧な事しか知らなかった。だが、私は任務の責任上、情報伝達(シュウケイ)を通じて大体の(状況に関する)事を把握していた。)Since we were in the midst of training, without regard for day or night at that time, speeds varying from first to fifth battle speeds were employed after leaving the port. In the (vicinity) of the ports of call, High speed, standard speed, and half speed, that is speeds from 15 to 32 knots, were used.
(その時我々は訓練中であったため、昼夜を問わず、出港後は第一戦速から第五戦速まで変化させた。寄港地(近辺)では強速、原速、半速としていた、すなわち15ノットから32ノットの速力を用いた。)Presently, night fell, and at 1100 hours on the following morning, we paused through a channel and entered a base.
(やがて、夜が訪れ、そして翌朝の11時00分に、我々は水路を通って基地に入り停泊した。)At a glance, the island appeared small and had a church. Three large landing barges (from the shore) came, alongside the AKIKAZE, and loaded goods were transferred to the units on land.
(一見して、その島は小さく、教会が建っていた。3隻の大きな揚陸船が(岸から)来ていて、秋風に接舷して、陸の部隊に積載物資を受け渡していた。)-9-
A Japanese paymaster commander and five others, an English missionary wearing a crucifix who appeared to be a colonist, female missionaries, natives, Chinese, and Burmese, a total of approximately 30 person, came aboard the AKIKAZE from shore.
(日本人主計隊長および他5名、十字架を身に着けた入植者と思われるイギリス人[17]宣教師1名、女性宣教師、現地人、中国人、ビルマ人など合計約30名が岸から秋風に乗り込んできた。)A conference of six persons was held, under an awning stretched beneath the bridge on the starboard side since it was the hot part of the day([18] (This conference was) between a Lieutenant attached to headquarters who (was) aboard the ship as (interpreter), the missionary who boarded the ship from shore, the paymaster commander of the land base, the captain of the AKIKAZE, and two others. For a ship, this was unusual, (therefore the) passengers were accorded good treatment. Tea and water were served, especially since women and children were aboard. Because they (TN Antecedent not clear) could not understand, they were cared for through hand gestures (TN Sic).
(暑い時間帯であったため、右舷の艦橋の下に張られた日よけの下で、通訳として艦に乗っていた司令部所属の大尉、岸から艦に乗り込んだ宣教師、陸上基地の主計隊長、秋風の艦長、その他2名による6名の会議が開かれた。艦としては異例のことであり(そのため、それらの)乗客は手厚いもてなしを受けた。お茶と水が彼らに供された、特に女性や子供が乗船していたためである。彼らは(注:前記は不明瞭)理解できなかったため、身振りで面倒を見られた(注:原文ママ))The meeting ended in approximately one hour, and the paymaster commander and others, who came aboard from the land base, returned immediately on a large landing barge.
(会議は約1時間で終了し、陸上基地から乗艦してきた主計隊長らは、大型揚陸艇で直ちに帰還した。)Shortly afterwards, as approximately 1230 hours, we left port.
(その後間もなく、およそ12時30分に、私たちは港を後にした。)I was informed by the executive officer that "Since all of these passengers are being returned to their native country, we are returning to the base at RABAUL".
(私は副艦長から「これらの乗客全員を彼らの母国に帰国させるため、我々はラバウル基地に帰還する」と伝えられた。)Though the passengers were foreigners, courteous treatment had to be accorded them since they were non-combatants. Therefore, the top decks and the quarter-deck were avoided so that there would be no danger, and for the sake of safety, the first and second crew's quarters in the forward part of the ship were opened and preparations made for their occupancy. They were accomodated[19] there.
(乗客は外国人ではあったが、彼らは非戦闘員であったので丁重に扱う必要があった。そこで、危険のないように最上甲板や船尾甲板を避け、安全のため、船首部の第一・第二船員室を開放して彼らの居住の準備を整え、そこに彼らを収容した。)-10-
At about 1450 hours of that day, the Medical Officer urged on the corpsmen, and personally treated the internees who had physical ailments. The sun was going down and about the time the breezes set in, we dropped anchor at the island again. The period, I still remember, was about five or six hours.
(その日の14時50分頃、医務官は衛生兵を促し、また身体に不調のある抑留者を自ら治療した。日が沈み風が吹き始めた頃、私たちは再び島に錨泊した。その時間は、今でもおぼえているが、約5時間か6時間だった。)I thought that perhaps we were going to ride at anchor temporarily in this harbor, when foreigners again (were taken on) board the ship. It was said that there were cows, chicken, hogs, etc on land and small homes could be seen some distance back from the shoreline. This place, too, appeared to be a base, and I thought it might be (a) Japanese Marine unit. It was said that the internees were likewise English. After taking roll call (TN Of the internees), it was decided that, due to having come from different places, it would be best to accommodate the internees separately, in the first and second crew's quarters respectively. We departed immediately, and as we increased our speed, we sailed through the night.
(私は、おそらく我々はこの港に一時的に停泊し、その間に再び外国人がこの艦に乗(せられ)るのだろうと思った。陸地には牛、鶏、豚などがいて、岸辺から少し離れたところに小さな家が見えたと言われていた。この場所もまた基地のようで、日本軍の海兵隊(の一つ)かもしれないと思った。ここの抑留者も同じくイギリス人だと言われていた。点呼(注:抑留者の)をとった後、異なる場所から乗ったため、第一船員室と第二船員室に別々に収容するのが最善だと判断された。我々は直ちに出発し、船速を上げ、夜通し航海した。)Roll call was taken again the next morning, and we were happy that all was well.
(翌朝に再び点呼がとられ、私たちは全てが順調だったことを喜んだ。)I was very much moved with a feeling of sympathy toward the internees, thinking how they must be praying for a speedy return to their native lands. When would the internees be sent to their respective homelands? A feeling of sadness and sympathy welled within me. Thereupon, I met the executive officer who was on the bridge and casually inquired (as to) whether he knew the nationality, sex, and mumber of the internees. I still remember that the executive officer and the ship's captain replied substantially as follows: Holding a piece of paper, he replied, "There are only Englishmen in this area. But there might have been some Germans here on rare occasions, too. Since the Chinese and Burmese
-11-
are servants of the English, and assuming four persons each, the total number of men would be 6 x 6 = 36 -- 36 persons I guess". (TN Sic.). After a short while, I remember the (Captain) to have said, "Wasn't there a total number of 8x8 = 64 -- 64 internees, executive officer?"
(私は抑留者たちに大いに同情の念を抱き、彼らが祖国への早急な帰還をどれほど祈っていることだろうと思った。抑留者たちはいつそれぞれの祖国に送還されるのだろうか? 悲しみと同情の念が私の中にこみ上げてきた。そこで、私は艦橋にいた副艦長に会い、抑留者たちの国籍、性別、人数を知っているか(について)さりげなく尋ねた。副艦長と船長が次のように答えたことを今でもおぼえている:一枚の紙を片手に、彼はこう答えた。「この地域にはイギリス人しかいない。しかし稀にドイツ人もいたかもしれない。中国人とビルマ人はイギリス人の従者なので、それぞれ4人ずつと仮定すると、総数は6×6=36 -- 36人になるだろうと思う」(注:原文ママ)。しばらくして、(船長が)「抑留者の総数は 8x8 = 64 -- 64人だったかな、副艦長?」と言ったのをおぼえている。)Therefore, in summarizing the above, the following figures and differences in nationality, sex, and members are arrived at with reasonable accuracy, although it may not be exact.
(したがって、上記をまとめると、以下の合計数と国籍、性別、メンバーの違いが、妥当な精度で導き出された、正確ではないかもしれないが。)Nationality Sex Number of Persons Remarks English and German Males - 28
Females - 2755 Including (I remember seeing a boy about four years old) Chinese and Burmese Chinese males-4
Burmese males-4
Females - 08 Four Chinese and four Burmese. Natives Males - 0
Females - 11 Person who carried the above-mentioned four year old boy. 国籍 性別 人数 特記事項 イギリス人とドイツ人 男性 - 28
女性 - 2755 (4歳くらいの少年を見たことを記憶している)を含む 中国人とビルマ人 中国人男性-4
ビルマ人男性-4
女性 - 08 4名の中国人と4名のビルマ人 現地人 男性 - 0
女性 - 11 上記の4歳の少年を抱いていた人物 In the morning, medical examinations were given to those internees who had stomach-aches or injuries.
(午前中に、腹痛や外傷を負った収容者に対して健康診断が行われた。)A direct course was taken toward KAVIENG, and at approximately 1100 hours, we dropped anchor temporarily in its vicinity. I saw two light cruisers and destroyers anchored near by. We sent blinker signals two or three times, but I do not know why it was done. We left port shortly afterward, passed through a channel, and set a direct course for RABAUL. I remember that the speed was increased from high speed to first battle speed, and it appeared that the urgent mission was to deliver the internees to the headquarters at the base at RABAUL, if possible, by today at the latest.
(カビエンへ直行で向かう航路を取り、11時頃、その近辺で一時的に錨を下ろした。近くには軽巡洋艦と駆逐艦が2隻停泊しているのを見た。2、3回点滅信号を送ったが、そうした理由は私は知らない。その後すぐに我々は港を後にして、海峡を通り抜けて、ラバウルへの直行航路に付いた。速度は強速から第一戦闘速度に上げられたと記憶しており、ラバウル基地の司令部に抑留者を搬送することは緊急の任務で、可能であれば、遅くとも今日中に、ということがそこから察せられた。)We had left the channel of KAVIENG and about the time the outline
-12-
of the island appeared small off the stern of the ship, I heard that Ensign OTA, Kenichiro (太田謙一郎), radioman aboard the AKIKAZE, had delivered a decoded telegram to the ship's captain, executive officer, and the lieutenant attached to headquarters who was aboard the ship.
(カビエンの海峡を後にして船尾に島の輪郭が小さく見えるのみとなった頃、秋風の無線通信士である太田謙一郎少尉が、艦長、副長、乗艦していた司令部所属の大尉に解読した電文を伝えたと聞いた。)Although the internees were enemy nationals, they were noncombatants, and even though their speech could not be understood, every crew member had been considerate.
(抑留者は敵国人ではあったが、非戦闘員であり、また彼らの言葉は理解できなかったが、乗組員全員が思いやりを持って接していた。)However, all division officers and above were ordered by the captain to report to the bridge. The captain's face was pale, and he disclosed substantially the following information which still sings in my ears.
(しかし、分隊長以上の士官全員は艦長により艦橋に集合するよう命じられた。艦長は顔面蒼白になっており、今でも私の耳に残る概して以下のような情報を明らかにした。)He states, "This telegram has just arrived. It is an order which compells us to dispose of all internees on board. Have all men other than those on duty make preparations. The executive officer will have the responsibility of its supervision. Commence preparations immediately."
(彼は「この電文はたった今到着した。船内の抑留者全員を処分せよという命令である。当直者以外の全員に準備をさせよ。副艦長がその監督責任を負う。ただちに準備を開始せよ」と述べた。)We were all taken aback by the enormity of the order, but since it was a military order, we had no alternative but to commence preparations. These measures were planned and executed as follows: Although it has been some time since the end of the war, there is absolutely nothing that is of uncertainty, and I shall write clearly of what I have seen and heard.
(我々はその命令の非道さに驚いたが、それが軍事命令である以上、準備を始める以外の選択肢はなかった。その手段は次のように計画され、実行された:戦争が終わってからかなりの時間が経っているが、不確かなことは全くなく、私が見聞きしたことをはっきりと記そう。)-13-
- 159ページ:『Sketch (C) Sketch of Destoyer AKIKAZE』、秋風艦の構造を側面図と上面図で示したスケッチ
- 160ページ
Outline of the Execution
(処刑の概略)- Time About the time that KAVIENG Island faded into the distance and could no longer be seen.
(時間:カビエン島が遠く離れ見えなくなった頃) - Time elapsed from receipt of the order to the execution. I believe it was approximately one hour.
(処刑の命令を受け取ってからの経過時間:約1時間だったと思う) - Persons responsible. They were given strict orders (by the ship's captain) as in the following chart.
(責任者:彼らには後掲する表のように(船長からの)厳密な命令が下されていた) - Ship's speed - I remember that it was about third battle speed. (To reduce noise)
(船の速度:第三戦速程度だったと記憶している(音を紛らわすため)) - Spot of execution - Between points (A) and (B) on Sketch Map (D).
(実行地点:スケッチマップ(D)上の点(A)と点(B)の間) - Time required for execution - Approximately two hours and fifty minutes.
(処刑に要した時間:約2時間50分) - Time of arrival at port - Entered port at RABAUL in the evening (after sunset) of that day. The ship's captain reported to Base Headquarters.
(港への到着時刻:同日の夜(日没後)にラバウル港に入港した。船長は基地本部に報告した。)
- Time About the time that KAVIENG Island faded into the distance and could no longer be seen.
- 161ページ:『Sketch Map (D) Sketch showing course taken by ship during the Execution』、処刑の際に秋風がどの海域を航行していたのかを示したスケッチ
- 162ページ:『Chart showing Roles of Participants in the Execution』、処刑において各役職の者がどういった役割を果たしたのかを示した表
- 163ページ
Summary of the Execution
(処刑の要約)- The interpreter, a lieutenant attached to headquarters, summoned the internees by name and commenced interrogation. The missionary was called out first.
(司令部所属の大尉である通訳者が、抑留者らを名前で呼び出して尋問を開始した。宣教師が最初に呼び出された。) - Each internee passed beneath the forward bridge on the starboard side (refer to sketch of path taken, Sketch Map (E) and came upon two waiting escorts.
(それぞれの抑留者は前方ブリッジの下の右舷側(経路のスケッチ、スケッチマップ(E)を参照せよ)を通過し、待機していた2名の護送者に出迎えられた) - Here they were blindfolded with a white cloth and supported by each arm. By this time the interrogation of the second person was begun.
(そこで彼らは白い布で目隠しをされ、両腕を把持された。この時点で2人目の人物に対する尋問が始められた。) - Meanwhile, beneath the bridge of the quarter-deck on the starboard side, both wrists of the first person were firmly tied and he was again escorted to the execution platform.
(そのうちに、後方甲板のブリッジの下の右舷側にて、最初の人物の両手首はしっかりと縛られ、彼は処刑プラットフォームへとさらに護送された。) - On the execution platform, they were faced toward the bow, suspended by their hands by means of a hook attached to a pulley, and at the order of the commander, executed by machine gun and rifle fire. (Refer to rear view and side view of Sketch Map (E)
(処刑プラットフォームにおいては、彼らは艦首側に向いた形で、滑車に取り付けられたフックによって手が吊り下げられ、そして艦長の命令により、機関銃や小銃の射撃で処刑された(スケッチマップ(E)の後方図や側方図を参照せよ)) - After the completion of the execution the suspension rope was slackened and it had been so planned that when the rope binding the hands was cut, the body would fall backwards off the stern due to the speed of the ship. Moreover, boards were laid and straw mats spread to keep the ship from becoming stained, and as shown in Sketch Map (E), supports and cross-beams were set up.
(処刑の完了後に懸架ロープは緩められ、そして手を縛っていたロープが切られると死体は船の速力の為に船尾の後方に落ちる様に計画されていた。また、船体が汚れないように板および藁のマット[20]が敷かれ、そしてスケッチマップ(E)に示すように、支柱と横桁が設えられていた。) - Thus, in this way, first the men and then the women were executed. The child going on toward five years old was thrown alive into the ocean.
(上述のように、この方法にて、まず男たちがそして女たちが処刑された。5歳になろうとしていたくらいの子供は生きたまま海に投げ込まれた。)
- The interpreter, a lieutenant attached to headquarters, summoned the internees by name and commenced interrogation. The missionary was called out first.
- 164ページ:『Sketch Map (E) Detailed Sketch of the Execution』、処刑の場面の明瞭な図解
- 165ページ:『Bird's Eye View』、上記の処刑の場面の鳥瞰図。および『Sketch Showing path taken』、被害者らが艦の前部にあった「Internment rooms」(収容室)から「Execution stand」(処刑台)にどのような経路で連行されたかを示す図。
- 166ページ
- On the following day, the after deck of the AKIKAZE was tidied up, offerings were arranged, and services were held for the dead by the captain and the entire crew.
(翌日、秋風の後方甲板は片づけられ、供物が並べられ、艦長以下全乗員による死者の為の慰霊祭が執り行われた。) - There were three men present who had been in the priesthood before entering the service, which was convenient, and somehow it seemed as if the spirits of all were restored.
(軍務に就く前に僧職に在った男性が三名居り、これは都合の良い事であり、どうにか全員の精神は回復したようであった。) - I am certain that while I was aboard the AKIKAZE, there was only one such incident, and in defeat today, I have submitted an accurate signed statement.
(私が秋風に乗船していた間に、このような事件は1回のみであったと私は確信しており、敗戦を経た今、私は正確な署名付き声明を提出する次第である。)
- On the following day, the after deck of the AKIKAZE was tidied up, offerings were arranged, and services were held for the dead by the captain and the entire crew.
一ノ瀬春吉の証言
一ノ瀬春吉は事件当時マヌス島ロレンゴウ派遣隊長だった人物である。
オーストラリア国立公文書館所蔵、シリーズ「MP742/1」内、コントロールシンボル「336/1/1444 PART 2」、表題『"Akikaze" Massacre - Reported killing of civilians 18.3.43 [also murder of internees at Kavieng] Akikaze massacre - sub-file to MISC 1 - Statements, interrogations, affidavits etc.』(アイテムID「30112609」)、25-26ページに彼の証言がある。
「同島には第三国人が約20名居た。最初は交流も乏しかったがだんだんと親しくなり日本酒を酌み交わしたりもした。ある時「彼らを移送するから準備しておけ」という命令電報が届いたので急いで手配をし、彼らを駆逐艦秋風に送り届けた。秋風で彼らを入れろと言われた部屋はカイリル島で乗せた別の第三国人で既に一杯だったので、艦長に願って別の部屋を用意してもらった。」と言ったような内容を証言しているが、彼自身は秋風が出港する前に降りたので事件そのものに関する証言はない(そのためここへの転記も省略する)。
虐殺事件について知ったのは尋問を受けた時だったらしく、取り調べに関する書類には以下の英文記述が残されている(同資料、30ページ)。
When he was informed by the interrogating officer of the massacre which had taken place ICHINOSE was shocked to tears and his mortification appeared to me to be fairly genuine.
(和訳例:彼が尋問官から虐殺が起きたことを知らされたとき、イチノセはショックを受け落涙しており、私には彼の無念は本物のように見えた。)
なお、調査記録では一ノ瀬の証言と前掲の甲斐彌次郎の証言は概ね一致するとしているが、ロレンゴウで乗船した第三国人の人数だけは食い違っていると指摘している。甲斐の証言では「四十名餘」となっていたが、一ノ瀬の証言では「約二十名」となっているためだ。この食い違いについては、「一ノ瀬の証言の方が正しいのではないかと思われる」と言った意見も記載されている。一ノ瀬はその第三国人ら19名分の国籍や年齢や職業の情報を証言しており、さらに彼らの住所を書き入れた島周辺の地図までも提示していた(同資料、27ページ)。
大西新蔵の回想録
第八艦隊の参謀長だった「大西新蔵」や第八艦隊の司令長官だった三川軍一は戦後この事件の戦犯容疑での裁判を受けており、その時のことについて大西は1979年に出版された回想録『海軍生活放談 日記と共に六十五年』にて書き残している。
終戦の翌年即ち昭和二一年には、戦犯容疑者の拘禁が始まった。日本はポツダム宣言を受諾したので、予期された事ではあるが、戦犯とは戦勝国の一方的な残虐行為である。A級戦犯、B級戦犯の誰々が巣鴨拘置所に入った、と新聞が書き始めた。二一年一二月初めの頃である。復員局から私に対しても、内密に警告があった。ソロモン方面宣教師等虐殺事件で、連合軍の捜査員が活動を開始したという。第八艦隊参謀長時代の事件なのである。長官の三川中将も危い事と知った。兎も角、二人の陳述に喰い違いのないように打ち合せねばならない。下落合の三川さんのお宅で話し合うのはまずいので、往来で歩きながら話し合った。駆逐艦秋風に起った事件である。打ち合せた事項は日記に書いていない、「そんな事件は知らない」「秋風の如き旧式駆逐艦は八艦隊にはいなかった」と主張することを話し合ったようである。永野修身大将は、戦犯の張本人は乃公だ、と宣言しながら巣鴨入りした。しかし、私の場合はちがう。残虐行為関係のB級戦犯である。進駐軍は理不尽である。極刑の公算もある。戦死の覚悟は出来ても刑死は憤懣やる方なし。ショックは受けたけれども、表には出さなかった。当時の日記をみても、精神動揺の形跡がない。家族に対しては、軽度の事件で進駐軍から調べられるかも知れない、と告げた。
戦犯裁判の実体
嫌な想出を長々と書くのは不本意なことだが、自分の一生においては、生か死かの岐路なので総括的に記述する。日記を読み直して目につくことは、復員局が私達二名(三川8F[21]長官と私)に対して、少しも面倒を見て呉れなかった事である。否むしろ私達二名の犠牲において、未だ拘置されていない人達を助ける方向に動いた事である。問題の駆逐艦秋風が、どこに所属していたかが決定すれば、その長官たる草鹿中将が責任者と決定する。そして私達は無罪となり、草鹿長官が代って拘置されることになる。こういうケースは他にもあった様であるが、検事側の証人に立った人達は、皆復員局からの差し金で動いており、秋風は第八艦隊の指揮下に在ったという。任務により指揮系統を変更すること、即ち一時的に指揮系統を変更することを軍隊区分と言った。残念乍ら兵学校出身の証人が軍隊区分は一日間でも二日間でも変更出来るような事を言った。軍隊区分はそういう軽い便宜的なものではない。この陳述は検事の軍隊区分に関する概念を迷わしめるものであった。従って、当方弁護団は証人の証言も大切であるが、物的証拠を重要視した。大本営に提出した作戦日誌とか、関係者の日記等、具体的物件をより一層重視した。尾畑前法務官は、我等の弁護人であったが、以上のような経緯があったためであろう。調査も不徹底であった。近藤弁護人とフェジソン弁護人が信頼された。私はFeatherstone弁護人に、第八艦隊や、南東方面艦隊から大本営に提出した作戦日記を捜し出すように求めた。そしてこれが出て来さえすれば問題は簡単に解決すると、しつこく要請した。しかしなかなか出て来なかった。どうして出て来なかったのか?私はこれを確めていない。当時の日記を読んでみたら、矢張り日記のままを抄記するのがよいと知った。
これ以後は長くなるため引用は控えるが、大西は「復員局は、第八艦隊の大西と三川に罪を押し付けて、南東方面艦隊司令長官だった草鹿任一中将を守ろうとしている」という疑いを強く抱いていたらしいことが伺える。
例えば、複数の海軍の軍人が検事側の証人に立って「事件当時は秋風が第八艦隊の指揮下にあった」と証言したことについて「明治ビル[22]に呼ばれる前に復員局に立寄り、何れも耳打ちされたものと見えて、皆、秋風が8Fに一時入れられた様な事を述べる」と記している。
そして、1948年の秋になってから「南東方面艦隊戦時日誌」などの証拠が提示され、その内容から「秋風が事件当時も南東方面艦隊の指揮下であった」ことが示され、これをもって大西と三川は最終的に無罪となったという。大西はこの時期になってやっと決定的な証拠が出てきたことについて
二三年秋は世界の情勢が変って来て、米ソ間の冷戦が開始された。米は対日態度をAntiからProに変向し始めていた。この情勢から、新しく拘置される者は無いと噂も立っていた。草鹿さんの身辺に危険なしとの見究めもついた筈である。
と記しており、「米ソ冷戦開始の影響で米国の日本に対する態度が軟化して草鹿任一中将が訴追される心配がなくなったので、それまで意図的に伏せていた大西と三川の無罪を立証する証拠を出したのだろう」と推測していたようだ。
実際「秋風が事件当時指揮下にあったのは第八艦隊ではなく南東方面艦隊である」という論理で第八艦隊参謀長の大西新蔵や第八艦隊司令長官の三川軍一が無罪となったならば、次には南東方面艦隊司令長官だった草鹿任一が責任を問われなければならないはずだが、その問責が行われた形跡はない。
こうして「この殺害事件について誰に責任があったのか、殺害命令は誰がなぜ出したのか」については有耶無耶のままに、戦犯裁判は終結した。
なお、裁判の際に証言した者たちの氏名も書き添えられているが、その中には上記の供述書の人物と同一と思われる「甲斐弥次郎予備大尉」「一ノ瀬春吉」「石神信一」「高橋萬六秋風第一分隊長」「小口茂秋風機関長」の名もある。
関連リンク
- Basic search | RecordSearch | National Archives of Australia
(オーストラリア国立公文書館の資料検索画面。「akikaze」のキーワードで検索すると本事件の資料を確認でき、その中でも「Digitised item」が利用可能なものは資料のスキャン画像も閲覧可能)
- The Akikaze Massacre: the Japanese Navy’s Mass Murder in the Solomon Sea - History Guild
- Josef Lörks – Wikipedia
(Wikipediaドイツ語版、このとき殺害された被害者内でも高位の聖職者だった人物「ヨーゼフ・ラークス司教」の記事)
- 17.03.1943: Todestag Bischof Joseph Lörks SVD - Kath. Kirche Kalkar
(ドイツの都市「カルカー」にある聖ニコライ教会のウェブサイト内、ヨーゼフ・ラークス司教に関するページ。殺害理由の推測が記されている)
関連項目
- 事件・事故の一覧
- 虐殺
- 日本 / 日本軍 / 大日本帝国海軍
- 歴史 / 戦争
- 太平洋戦争 / 大東亜戦争 / 第2次世界大戦
- ニューギニアの戦い
- ラバウル
- 三八式歩兵銃 (老本義治の証言が正しいならば、銃殺の際に凶器として用いられた)
- パプアニューギニア (事件が起きた海域は、現在ではパプアニューギニア近海にあたる)
- 駐蒙軍冬季衛生研究成績 (「相手を殺害しつつも慰霊祭を行い、そのことについて感動の念を表明」という、この事件での石神信一の供述書に類似した内容が含まれる。当時は一般的な感性だったのかもしれない)
脚注
- *甲斐彌次郎の証言が正しいなら、16日にカイリルを出港して翌17日にロレンガウに到着、同日夕にロレンガウを出港して翌18日午前中にカビエンに到着、すぐに出発して昼過ぎに事件が発生しているので、18日のはずである。だが他に17日だとする資料も存在するとのこと。
- *当時海軍少将だった鎌田道章か
- *「大発動艇」の略称「大発」の意と思われる
- *当時の秋風艦長だった佐部鶴吉か
- *当時秋風が所属していた第34駆逐隊の司令だった天谷嘉重か
- *「節」は「ノット」の漢字表記
- *「居ラレマシタ」ではなく「居ラレタシタ」と書いてあるように見える
- *文頭にあるべき「『」は欠けているようだ
- *この「宛」は「ずつ」の漢字表記と思われる
- *既に記された「銃殺時期」が何故か二回重ねて記されている。理由は不明。
- *前ページの「銃殺時期」と同じく、既に記された「外人乗船場所」が何故か二回重ねて記されている。理由は不明。
- *154ページには高橋重夫の証言レポートが混入している。苗字が同一であるためのミスか。
- *原文では「TAKAHASHI, Manroku is the only known eye-witness (on his own admission) of the "AKIKAZE" massacre who has so far been interrogated.」。168ページ。
- *「TN」は「translator’s note」、「翻訳者による注釈」の略かと思われる。ここ以後でも出てくるが、翻訳文では「注:」とした。つまり翻訳文内で「注:」としている部分は、本ニコニコ大百科記事の編集者が付した注釈ではなく、報告書の英文の時点で「TN」で付された注釈の翻訳である
- *髙橋萬六はこれより前のページの「Forward」(序文)にて、「The area and place names of that time are still not clear, and especially, I am completely unable to remember dates. Thus, I have written so as to permit insertion in the blank spaces.」(当時の地域や地点の名称は未だにはっきりせず、特に日付は全く思い出せない。よって空欄に書き入れることができるような形式で記載した。)と供述している。
- *甲斐彌次郎の事かと思われる
- *実際にはドイツ人ではないかと思われる。この後のページにある表にも「イギリス人とドイツ人」とまとめて書いてあるなど、髙橋萬六や彼の周囲の人物は誰がイギリス人で誰がドイツ人なのかよく把握していなかった節がある。
- *余分な「(」が入っている。原文ママ。
- *「accommodated」のタイプミスか
- *いわゆる「むしろ」のようなものか
- *「8F」は第八艦隊の意
- *現:明治生命館。明治生命保険の社屋ビルだったが、終戦後にGHQに接収され、戦犯裁判の取り調べもここで行われた。
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