エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ(ελωι ελωι λιμα σαβαχθανει)とは、「わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか」という意味の言葉である。
概要
「新約聖書」に記されたイエス・キリスト処刑の場面で、イエスが十字架上で絶命する直前に祈った言葉として有名。
ただしこの言葉が記されているのは、正典とされる四つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のうち、「マタイによる福音書」(該当部分は27章46節)、そして「マルコによる福音書」(15章34節)、の二つだけである。
旧約聖書からの引用
この祈りの文言は旧約聖書「詩篇」第22篇の冒頭句「エリ・エリ・ラマ・アザブタニ(
ただし、この引用がイエス自身によるものか否かをめぐっては議論がある。イエスの受難物語には全体として、イエスをこの「苦難の義人」と並行関係に置こうとしている傾向が見て取れる。例えば、イエスを責める人々の行動を描いた部分にも、「詩篇」第22篇で「苦難の義人」を苛む人々の行動そのままの箇所が複数ある(「マルコによる福音書」15章24節や29節など)。しかも十字架上のイエスはすぐその後で「大声を放って息絶えた」と記されている(「マルコによる福音書」15章37節)。このイエスの絶叫に祈りの言葉を与えたのが受難物語の記載者ではないかと考えられる。
「詩篇」第22篇では冒頭で神の救いを疑った義人が最終的には神への信頼を表白している。この神への信頼をイエスの最期の祈りに合わせたのがルカ福音書であろう。「父よ、あなたの両手に霊を委ねます」(「ルカによる福音書」23章46節)
いずれにしてもマルコ福音書では、「どうして私をお見棄てになったのですか」と神に問いかけて絶命したイエスを見ていたローマの百人隊長が「本当にこの人間こそ神の子だった」と告白している(「マルコによる福音書」15章39節)。
Q. 「エリ・エリ・・・」じゃないの?
どっちでも正解。「マタイによる福音書」では「エリ」、「マルコによる福音書」では「エロイ」である。
なぜ異なるのか?を考察すると少しややこしい。
まず、既に述べたようにこの言葉の元ネタは旧約聖書の「エリ・エリ・ラマ・アザブタニ(
そしてイエス・キリストやその弟子たちは、普段はアラム語を話していたと推定されている。アラム語では同じ言葉が「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ(
この発音を、ギリシア文字に転記したのが「マルコによる福音書」での「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ(ελωι ελωι λιμα σαβαχθανει)」である(新約聖書はギリシア語で書かれた)。
これは単にアラム語発音をギリシア文字で書いてあるだけなので「ギリシア語訳」ではない。この後から、「これは『わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか』という意味である」というギリシア語での翻訳が続く。
新約聖書の他の部分のように単純にギリシア語に訳されるのではなく、あえて純粋に発音で表現してから後からギリシア語翻訳解説を入れるという特別な扱いしている理由は、やはり「旧約聖書中の言葉が元にあること」を強調する意図があったものかと思われる。
「マタイによる福音書」でも経緯はほぼ同じだが、「わが神」という呼びかけに当たる「エロイ(ελωι)」という部分だけヘブライ語風発音の「エリ(ηλι)」に変えられて「エリ・エリ・ラマ・サバクタニ(ηλι ηλι λιμα σαβαχθανει)」になっている。
イエスが本当はどちらを言ったのか(あるいはどちらも言っていないのか)は永遠の謎である。普段アラム語を話していたイエスも、引用をするときはなるべく原典に忠実にしようとしてヘブライ語風の発音も取り混ぜて使うかもしれない。
ただ、マルコ・マタイ双方の福音書において、イエスのこの言葉はその時に周りにいた者たちから「エリヤ(旧約聖書の預言者)を呼んでいるのだ」と聞き間違えられている(マルコ15章35節、マタイ27章47-49節)。どちらかというと「エリ・エリ・・・」の方がそう聞き間違えられそうではある。
関連項目
- 10
- 0pt